赤崎三十三観音 その6
今までのものから少し離れた桜の木の下にあった2対です。 向かって右側のものは、他のものに比べると風化の程度は少ないです。光輪が残っていますし、顔の表情がわかります。風化しにくい場所に置かれていたと思われます。が、どのような場所であったかは判りません。 曹洞宗のお寺とも浄土宗のお寺とも関係なく、二つのお寺の間に並べられていた三十三観音。「太子守宗の大刹」があったという伝承が残っていると『新編会津風土記』に記されているところからそう離れていません。そして、浄土宗のお寺の建物はほとんど、ほぼキリシタン方位角を向いていますし、蒲生家の時代には寺は機能していなかったと、お寺にある石の説明板に記されています。村中の道の向きは、若松城下の南北の道とほぼ同じ角度で造られています。 しかし、こうしたことを説明している記録はありません。「詳(つまびらか)ならず」と記してきたのが二十世紀前半までの史学でした。しかし、それでは何の説明にもなりません。出来るだけ多くの研究方法や視点を用いて歴史を明らかにしないと、結局は「詳ならず」で一件落着になってしまいます。しかし、これだけのキリシタンの痕跡が残っていながら何故伝承が消えているのか。あるいは潜っているのか。 自分たちの先祖のことを隠さなければならない理由は何なのか。この周辺は、現在は田圃が広がっていますが、近年までは「暴れ川」といわれる押切川の氾濫で大変なところでした。日中ダムが出来て川が静かになったそうです。 「むかしは橋の上から川に飛び込めただよ。川が荒れて、川底が上がってしまったからこんなだけんじょ。」 水取りが浅瀬に下りてきている川を見ながらそう説明して下さった方もいらっしゃいました。 歴史は出来事の断片ではなく、時の流れの中で生きてきた人々の現実だと思っています。その現実のすべてが文字になって残されているわけではありません。 過去の現実を消したいと思う人もいるかもしれませんが、しかし「何故消したいのか」を問題にしなければ、「消したくない」人々の歴史だけが闊歩してしまいます。