2015/06/01(月)21:56
会津に残っている歌舞伎の舞台
【会津に残っている歌舞伎の舞台】 これは2006年9月5日に撮った写真です。会津のとある村に残っている歌舞伎の舞台と、その少し手前にあった清水です。かなりきれいな水なので飲んでみたのですが、美味しい水でした。こうした歌舞伎は、間違いなく伊那高遠から会津へ移住してきた人々によって持ち込まれたものであろうと考えています。 小生が知っている限りでは、伊那高遠に歌舞伎の舞台が2ヶ所にありました。そして、そうした文化を携えて、山形最上経由で会津に入って来たと考えています。そして、京都の東山に建てられている出雲の阿国像の胸に、クルスが掛けられていることを知って、歌舞伎の中にキリシタンを隠していたことを確認出来ました。 ですから、蒲生氏郷と共に会津に入って来た家臣団の中に残っていた宝篋印塔を墓石として建てる習慣や、伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た歌舞伎、そして、庚申の年に「庚申」碑を建てる習慣。これらを連結して考えると、戊辰戦争まで外堀の内側にキリシタンがいたことも納得できます。 保科・松平会津藩では、保科正之公以降、キリシタンであることが露顕した武士は、帰農すればお咎めなしでしたし、上級武士になればなるほど、露顕しにくいのは、武家屋敷の構造からしても理解できます。先日、東京の工事現場で人骨が発掘されましたが、その数からすると、大きな武家屋敷の一画に、お御堂が建てられていて、その家の方が亡くなると、お御堂のところに埋葬したのかもしれません。