会津キリシタン研究所

2015/10/31(土)11:49

会津に残る高遠の香り

キリシタン(16134)

             【会津に残る高遠の香り】 これらの3枚の写真は、現在は新潟県になっていますが、江戸時代には会津だった地域で撮った写真です。2008年のことでした。この頃にはまだ、伊那谷を一度しか訪ねていませんでしたから、すぐには気が付かなかったのですが、会津には伊那谷に残っている民俗的習慣が、所々に点在しています。現在はそれをはっきりと断言できる伝承を、色々な村々でお伺いしたことがあります。 「マキ」という同族集団は、おそらく高遠から続いてきたことであろうと思われます。また、伊那高遠から伝わったコトが会津にも残っているのですが、上段の写真に写っている墓石は、そうしたコトが伝わっている一帯でも出会ったことがあります。つまり、残されている史料からでは知ることが出来ない民俗習慣の中に、伊那高遠から山形最上経由で会津に入って来た家々があることは間違いないと考えられます。 保科正之公と共に伊那高遠から山形最上経由で入って来た家々の中は、そして、会津藩領内だけでなく天領南山御蔵入にも帰農しているケースが少なくないことを確認することが出来ます。ですから、会津のキリシタン研究にとっては、それを十分に考慮しながら進めなければならないのですが、保科正之公は何故、3000人の農民を武士に取り立てて、山形最上経由で会津へ同行させたのかが気になります。 そして、こうしたことを会津藩領内と天領南山御蔵入で確認し続けて来たら、答えは一つしかないと考えるようになってきました。と同時に、『会津藩家世実紀』では処刑されているキリシタンの子孫が、『新編会津風土記』に残っている17世紀初頭の文書から処刑されていないことを読み取ることが出来ます。10年以上、残されている会津の史料と格闘してきた結果でもあります。

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