誰かの基準
学校て、とにかく自分の基準持っていてはだめな社会の縮図なんだよなあ~ってふいに思う。友だちとの会話、空気を読めと言われるのは大人の社会だけじゃない。私たち大人の社会では、早さ、効率、生産性、正確性を求められ、会話では空気という目にみえないものまで読まされ、早く早く、と急かして日本の長い国土を宅急便のトラックが駆け抜け、スーパーのレジでは、全然待たしても、待たされてもいないのに、「大変お待たせ致しました」を機械的に繰り返す。どこまで私たちは急いでるんだ!!急がされているんだ!誰のために?いつでもどこでも誰かのために?そんな私たちの社会でのストレスを、働いている人々が受け、その人々が家に帰ってから妻や夫にぶつけ、そして最後にぶつけられた子どもたちは学校で自分と異なるもの、弱いものをみつけてぶつける。だから、誰かの基準で生きてちゃだめなんだ。学校の評価やテストが100%正しい、とそこに自分を合わせちゃだめなんだよ。合わせ始めたら最後、ずっと自分の人生の大事なキーを握れない。自分を生きるには、そのキーをしっかり自分で握っておこう。誰にも渡さず、学校や先生や友だちや親にも絶対渡さず。持ち続けていれば、ひとりがこわくない。誰とも合わなくたって例え嫌われようと、いじめに遭おうと、自分を持っていて、そこに納得が生まれれば、それは生きていく自信になる。学校で成績がつくから勉強するんじゃない。中間テストのために勉強するんじゃない。親のために、喜ばせるために勉強するんじゃない。じゃ、何のために? そこから子どもと一緒に考えていこう。