主語の欠如
私が初めて海外で暮らして、英語でコミュニケーションをしないといけなくなったとき、カラダで感じたこと。「主語が必要なんだ」もちろん英語を学び始めた中一から知ってたけど。I you he she they we …でも、ちがう、知ってるわけじゃなかったんだって。初めは頭に日本語を浮かべて英語になおしてたんだよね。そうしたら、思い浮かべる文章に主語がない。あれ?これってどの主語を持ってくればいいんだっけ。とても苦労しました。そして自分のことを説明するとき、必ず、 I を付ける。自分がどう思うのか、考えるのか、どうしたいのか、を考えないと話せないってことにも気付いた。そして、 you が不特定多数を表すってこと、誰かわからないとき、わかるけど名前を言わないでもお互い既知なものには they を使うんだってことに気付いた。というか、私がよく話していた友達の英語から全部教わった。なんでこんなこと今思い出したかっていうと、選挙と教育にカンケイがあるんです。明後日は投票日。マニフェストなんていう横文字をわざわざ使うっていうのにも疑問大なんだけど、(なんだかどれだけ強い思いがあっても、ぼやけるんだよね。だってやっぱり自分の国の言葉を使わないと。或はぼやけさせるのが目的か)自民党のマニフェストについて、内田樹という人が書いてあることを読んだ。これが自民党のマニフェストの一部。 戦後の日本を、世界有数の大国に育てた自負があります。しかし、 その手法がこの国の負の現状をつくってしまったことも、近年の 行き過ぎた市場原理主義とは決別すべきことも自覚しています。内田氏が言うように、主語がないってこと。「自民党は」とわざと書かずに、責任は転嫁し、その手法が現状を作ってしまった、と自分達の手法なのに、そう書かずに、勝手に手法がそうしてしまったかのような文章。これは… ひどい。あくまでも、舞台に上がらずに、2階席で状況を見てるっていう他人のふり、ぶりがあまりにもひどい。日本語は主語がなくても、機能する。その曖昧さは、「ツーカー」というコトバや「腹芸」「以心伝心」などにもあるように、曖昧な社会、それくらい察せよ,的な空気、(だから KYっていうコトバも生まれるのか)そういう社会なんだよね。いい悪いは全くおいといて。政治って、その国の国民をよく反映しているものだと思うから、ほんとにつくづく、自分を持たず、迎合しながら波風たてないように、他から浮かないように、出る杭にはならないように、っていうものが全て鏡のように、政治に投影されてるだけかも、と思ったりもしてます。そんな政治にくっついてくる教育が向かおうとしているのが何なのか、全然期待持てないじゃないの。でも。自分のこと思い出すと、私も、言いたいことを飲み込んだり、波風立てないほうがいいか、となあなあにすませたりすること最近多い。世間の目や自分の中にある、「世間的常識的こうあるべき」なものに押し流されてしまいそうなときもある。そういうものに向かっていく、とりあえず自分を誤摩化さない、本質を見ていく、重要なものを他人のものさしに渡さない。ってことを考えながら、政権が変わって、そして教育も変わっていってほしいな、と思います。学力テストの結果で応用問題が弱点、と新聞に書いてあるけど、今の教育じゃ無理でしょうというべたなフツウ過ぎる感想と、そんなテストごときで子どもの何を判断するだよ、っていう気持ちがミックスな感じです。さて、明後日の投票結果楽しみに、投票しに参りましょう。