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テーマ:心の病(7469)
カテゴリ:メンズカウンセリング
今朝もトレーニング。昨日と同じ山中八キロコース。13分タイムアップして15%ほどの時間短縮に。かなり身体の負荷が大きく、帰り着いてもしばらくはぜーぜー言って、汗もひかなかったけれど。
こんなハードな状況にも身体はちゃんと耐えてくれるのでありがたいですぅ。こんなハードな事も自分の意志でやってて、楽しめているから不思議です。他人にやらされてたらとてもじゃないけれど耐えられないでしようねえ。 私程の年齢になると、ランナーやスイマー、クライマーなどは別として、多くの人は身体機能が低下するとともに、精神的心理的な能力も低下する人が少なくないように思います。 職場の限界、自らの可能性の限界、体力の減退、疾病への不安、死への恐怖、などが感じられて、前向きに自分の人生を考えられなくなるようです。 刹那的に食べたり飲んだりする事、旅行したり趣味に没頭する事に逃避し、不安から逃れる事も少なくないでしょう。 また、不安を一挙に解消するために宗教に走る人もいるかも知れません。◯◯したらあちらの世界にいけて、一挙に問題がなくなる、という思考(妄想?)にみんなと一緒に入れば(信仰)、不安からは逃れられるかも知れません。 確かに私も強い信仰心はあって(特定の宗教宗派には属さず個人契約)あちらとつながっているって安心感はあるけれど、◯◯したらあちらに行ける、だから今の現実には目をつぶっていい、とは考えません。 むしろ、あちらもこちらもつながっていてこちらで◯◯する事に意味があるのではなく、こちらの世界にあちらの価値観を持ち込む事に意味があるのであって、そのための心身を預かっている、という思想を持っている私。 こんな私だから、私はこちらの価値観にはそぐわないトンでも言説みたいな事を語ったり、行動したりします。これは他者にはとても違和感や嫌悪感を覚えるようで、反論されたり拒絶されたりも当たり前。 けれど、私はそれで自分が自信をなくしたり、弱って病に冒されたりもありません。常にマイペース、自分の身体にも生活環境に対しても、かなりの負荷をかけても、それを成長のエネルギーにしようとするどん欲さ、自己信頼感はすごいものがあると自分でも不思議です。 自分に負荷をかけつつ、自己成長していく行為が、私には「修行」のように思えるこのごろ。単に苦しみに耐えて、他者との違いを確認することではなく、人はだれでも自己を知り自己を受け入れ、世界とともにある事で、どんな存在にも変容しうる、と言う事を自他に確認する事が、私の修行かな。 まあこんな話しは心理の世界とは一線をかくす世界の話しなので、日常的にはあまり話さないけれど、たまにはこんな話しもいいかなって、書いてみました。 私が私であることの意味が少しは感じてもらえたかな。
Last updated
2009/08/08 09:14:55 AM
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