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人は悩む力を持ってるけれど、フロイト流に言えば、欲望と理性の対立が葛藤を産むって所でしょうけれど、そもそも欲望とか理性とか言うものも、頭の中から産み出されるもので、その頭の仕組みは遺伝的に組み込まれたプログラムもあるけれど、生育の中で体験やら学習やらによって組み込んでいくプログラムにすぎません。
ですから、葛藤の起こる状況にフォーカスするのはやめて、状況によって葛藤の起こるプログラムにフォーカスしようというのが、ナラティブ的な対応といえるかもしれません。 昨夜対話してた軽度の躁に転じた双極性の方、長年の鬱に苦しんでおられましたが、最近躁転して、ずいぶん楽に動けるようになったとの事。本人にしてみれば鬱で心身ともに重く動けない苦しさから解放されたようで、表情も言動も随分変られました。 けれど主治医はどうも躁転を警戒しているらしく、躁を抑える薬を増やしました。まあ、確かに躁転した時に事故や問題が起きやすいのは事実で、ドクターの気持ちがわからないでもないし、判断が誤りとも言えません。 けれど、鬱で辛いのはクライアント本人で、本人が楽になっているのはいい事ではないか、というのが私の判断、このまま軽度の躁で身体や意識のトレーニングをしていく事で、社会復帰や人生の再構築も可能ではないかと思います。 この判断の違いは、私が、躁と事故の間には認知や状況の介在があり、その認知や状況にフォーカスする事で、事故は防げると考えている事でしょう。 鬱は(躁鬱も)薬ではなおらないと言われる事も少なくないこのごろですが、体験の意味や認知を含めた、クライアントの意識・無意識をごっそり解体して、新しい物語りを書き込んでいく作業こそが、本当の意味でセラピーになるのではないか、と確信する私。 世界を意味付ける価値観を解体再構築する事が、人生の物語りを書き変えるためには不可欠。そのセラピーを行うにはセラピストがあらゆる価値観から自由でなければできるはずもありません。その点、私はとんでもなく自由で、顰蹙を変えるくらいですから・・・実はその作業が難しくはないし・・・昨日も充分楽しませて頂いたかな・・感謝 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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