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今日は敗戦から68年。先日みた「終戦のエンペラー」では終戦に至る皇室周辺の動きや、敗戦後の天皇とマッカーサーの駆け引きなど、なかなか史実にはでてこないストーリーが映像化されていて、それはそれで面白いものでした。
ドイツやイタリアなど同盟国の敗戦のありようと日本の敗戦のありようの違いが、戦後の国民の意識や政治状況の違いにも現れているように思われてなりません。 ドイツではヒトラーは自殺し、ホロコーストを行った国家的責任を引き受け、歴史的事実を後世に伝える努力を続けています。イタリアではムッソリーニの遺体は広場で吊るされ、戦争責任を社会的に国民が問うています。 引き換え、日本の敗戦は天皇の玉音放送で決定されたという事実から、国体護持という体制擁護の価値観が生き残り、それはそれで戦後復興に役立ったと言えなくもないけれど、戦争責任が曖昧にされ、国民自身も一人一人が自らの戦争責任と向き合う事をせずに済んだように思います。 誰が戦争を起こしたのか、なぜ戦争が起きたのか、自分は戦争にどう関わったのか、など、真剣に向き合う事も無く、自分の知らない所で戦争が始められ、自分は巻き込まれた被害者として自分を位置づける事で、良心の呵責から逃れる事が可能です。 戦争で親族を失った人、戦場で残虐な行為を行った者、などの本心は語られることはなく、きれいごとの慰霊祭で事実に蓋をしているようにしか思えません。 私の父親は下士官候補を拒否して中国奥地に送られ、命からがら逃げ帰った兵隊です。彼は青年時代を上海で過ごしたモボで、中国語もある程度話せてるし、中国人の友人もいたようです。 彼は戦地に送られても、他の日本兵のような東洋鬼(トンヤンキ)になれずに、自分を人間として維持し得たようです。いくつかのエピソードをこどもの私に話してくれました。 そんな私からすれば鬼になった多くの日本兵は戦後もその行為に自ら口封じし、あるいは口封じを強いられ、家族にもだれにも語らずに死んでいったことでしょう。誰にも語らず心に封じ続ける事の辛さも大変なものと思います。語れたら随分楽になれたのではないかと思うけれど、それを受けとめる力が日本人の意識の中には無いのでしょう。当然その語りから学ぶ事もできたのに、それをさせなかったばかりに、何の学びも無いまま、あの戦争すらないものにされてしまって行くのかもしれません。 そのあたり、中国・韓国の反日感情をとやかく言う前に、日本人自身がやるべき事をやるのが勇気ある大人のやる事だと思います。だって◯◯くんもしたんだもんぼくはわるくない、というこどものような発言を真顔でやる人を政治家に選ぶ日本人のメンタリテイーです。 すべて責任は曖昧にし、誰かに転嫁しててもねえ・・・こんな日本じゃまたなにかひどい事が起こるんじゃないか、と悲観してます。あっ、私自身は楽観してますよ、日本がどうなろうと大丈夫と・・・そんなこんなを感じた今日の日でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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