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味くんの家族再生支援日記

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メンズカウンセリング

2009/05/27
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テーマ:家族(111)
昨日の女ワークは前回の呪いのワークに続いて、自身の感情に気付きそれを受容するという作業でした。ジェンダーをめぐる社会的規範と自己概念との不一致について検証することと、その不一致からくる感情について、それをネガティブなものとして自己否定するのではなく、自己受容して行くというものです。

ワークに参加する女性は(参加しない女性も)女らしくあるということの求められる自己像と、現実の自己像との不一致に、悩み苦しんでいますが、それは自分の努力不足、資質の問題、などと認識するよう、教育されていますから、自責の念を持ってしまいます。

「むかつくー」「くそったれー」「なにしとんじゃー」のような表現にあらわされる感情は女らしくない、とその表現をしないまま、抑圧してしまいます。言語化できなかった感情は鬱積し、いずれ同じ状況が続けば爆発するのも時間の問題。なのに暴発したら、キレたダメな私という自己概念を作ってしまって問題解決がさらに難しくなります。多くはこの繰り返しでしようか。


そこで、それは果たして自分の問題であろうかと問いかける事で、状況を別の視点で見る事にします。と、社会規範にあわせなくていい、自分のままでいい、という価値観もある事に気付きますが、そうなると、自分が不一致で苦しんでいたのは自分のせいではなくて、社会のジェンダー規範だったり、家族の家族意識のせいだ、との視点で見る事も可能となります。これが問題の外部化です。

人のせいにするな、世の中のせいにするな、と説教好きは言いますが、人のせいにする事、世の中のせいにする事で、あるべき自己イメージを自分で作り出す事も可能となり、自己成長が始まります。

多様で自由な自己像を受容できる人は当然他人の多様なありようも受容する事が可能となり、相互の自由な関係が可能となりますから、感情の抑圧もおこらず、暴発や暴走もおこりにくくなります。


まあ、そんなこんなをみんなで楽しく語り合えた二時間。私もみなさんのいろんな語りで随分と気付きや勇気を頂く事ができています。有り難いものです。それに今日は、スタッフの旅みやげや、参加者の差し入れのお菓子などもあって、心だけでなく、身体もおいしく、心地よく過ごせましたとさ。






Last updated  2009/05/28 02:28:15 AM
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2009/05/23
テーマ:心の病(7161)
人の心は脳やら身体やらの情報の蓄積と交換によって成り立つシステムでしよう。インプットと処理とアウトプットがスムーズに動いていれば、心地よい状況でしょうか。

インプットが不適切で同じデータやアプリケーションがたくさんインストールされて、メモリが不足し、堂々巡りになって処理できなくなっている状況は鬱状況。完全にフリーズしてしまったらパニック障害でしょうか。

鬱やパニックは本人もつらくて苦しいからなんとか逃れたいと思うけれど、そこに到る前、は処理は重くて遅いけれど、そこそこ動いている状況は、不安という状況でしょうか。この不安がさらに軽い場合は、ほとんど機能的には問題ないようです。

インプットをフィルタリングできないシステムではウイルスやら不適切なインストールで、処理がスムーズにいきませんが、アウトプットも遅くなったり不適切なものになってしまいます。この軽度の不安状況は、とりあえずマシンは走れているというアリバイ(自己正当化)が成立するので、案外らくちんでしようか。

本来ならフィルタリングがしっかりして、メモリやハードディスク容量に合わせたアプリケションで処理するのが最も効率的ですが、ジャンクやパグを送ってくる世界との対立が出てきますし、正統な処理データをアウトプットしても世界がそれを拒否する確率も増えてきます。

こうして人々はほどほどに不安をあおられて、ハードディスクやメモリを非効率に使う事で、世界に適応しています。ほんとは不安に頼らず、自分の頭と身体で判断して、心を安心と快感で満たせた方が幸せなのですが、そのシステムのインストーラーを奪われているので、それもままなりません。

もう少し具体的に書くとすれば、怖いインフルエンザの大流行、という嘘のデータをインプットした人々は、不安になりマスクを買ったり、人ごみをさけたりする事で、不安と安心の間を行ったり来たりしているうちに、自分の存在を確認するという作業から逃れてアリバイ獲得できるのです。

本来なら、情報が嘘である事を確認して、マスクを買わず、人の少なくなった施設でゆったりと過ごせばいいのですが、マスクもせず、のんびり外出するなんて、人に感染させたらどうするの、という、非難の視線、時には警告を受けて不快な事になるかもしれません。

このように人々は不安をあおられ、思考や行動をコントロールされているのかもしれません。自分とは何か、他者との関わりはどうあるべきかなどという事を考え、自律していける人が多ければ世界は安定するのでしょうが、残念ながら、そういうパーソナリテイーはメジャーではありません。

人々の不安をあおる情報は山ほどあります。どれも専門家の語るデタラメだったり政策的にながされる発表データだったり、親切めいたCMだったりする訳ですが、メディアリテラシーを知らない人々には、データのフィルタリングもできません。

不安が増大した人々はどんな残酷なことでも平気で行います。悪人だから残酷な事をする訳ではありません。その心理的メカニズムは殺人犯も兵隊もDV加害者ももちろんジョージブッシュも同じです。

残酷な殺人犯を死刑にするのは、バカな話しです。生かして、謝罪させ、償わせ、なぜそうしたのか、心の闇やその闇の生まれたプロセスを検証するべきです。同じ犯罪者を作らせないために。

けれどこうした議論が理解できるほど、私たちはまともではないようです。バカな政治家を選び、彼らは馬鹿な官僚に操られ、政財官のシステムができ、人々をコントロールしているのかもしれません。不安という心のメカニズムを上手に使いながら。

みなさーん、不安にならなくていいんですよー。安心してくださいねー。不安がとれないようなら、私に一声かけてくださいねー。











Last updated  2009/05/24 03:54:17 AM
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2009/05/21
テーマ:心の病(7161)
今日は某カウンセラー養成講座での派遣講師でお喋りしてきました。テーマは病理です。精神病という言葉に潜む様々な問題を、精神病理の説明以前にしておきました。

七十年代、世界では精神病者に対する人権侵害をなくすべく、病床をなくし、入院を減らしていきました。日本では処置入院として、本人の意志を無視した暴力的な入院や電気ショックを与えて沈静化させる、いわゆる拷問のような処置がついこのまえまで普通に行われていました。

また、現在でも心理的なケアがほとんどなされず、投薬に頼る、いわゆる薬漬けで人生を終わらせてしまう処置が、普通に行われています。病んでいるのは患者か精神科医か、と言う議論にもなりうる訳ですが、権力構造がありますから、病んでいるのは患者、との言説のみが世間で語られる事になります。勿論、すべての精神科医が、という訳ではありません。

投薬は対症療法としては必要ですし、ある種の精神疾患には持続的な服薬が不可欠ということもありますが、薬では患者の価値観や体験、環境を変える事はできません。むしろ投薬が増える事で、新たな学習に基づく認知の変容や環境への働きかけを難しくし、回復の妨害になる事も可能性としてはあり得ます。

このような事を話したあと、正常と異常の判断のありようとかも話し、それからやっと精神病理についての説明に入りました。主に統合失調やうつについての説明をしましたが、世間での理解では、なかなか当事者の苦しみは理解不能な状況です。

とまあ、こんな話しをして、投薬では対応できない心の部分、認知やら体験やら、妄想やらについて、カウンセリングでできる事はとても大きなものですとも語りました。

世間に流布する情報に惑わされる事なく、当事者の語りから学びを得てともに語り合う事で、相互成長を可能にする事もカウンセリングでは可能かもしれません。そんな思いを伝えたつもりでしたが、ちゃんと伝わったかどうか。

この講座から帰って、夜の料理教室のレシピ作りとか、家人のご飯とかも作ってたら結局時間がなくなって、バタバタになってしまいましたとさ。








Last updated  2009/05/22 01:20:52 AM
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2009/05/18
テーマ:心の病(7161)
箱根空木

箱根空木(はこねうつぎ)

鷺

蒼鷺(あおさぎ)


先日二件のカウンセリングがありました。年代の異なる女性、それぞれ悩みも状況も異なります。
共通するのは、自身に対してとても厳しい事。いい・加減な私には痛々しく感じられる程に。

彼女たちは、善意で思いも深く、頭の回転も速く、独特の感性も持っています。そして持ち得ていないのが、「これでいいのだ」というバカボンのパパ流の自己肯定感でしょうか。

様々に矛盾する他者の評価や世間の物差しで自己を計る時、当然不一致が生じますが、その不一致をいい加減にしておけないので、なんとか一致させようと、あれこれ努力しますが、当然徒労に終わります。本人は堂々巡りの絶対矛盾に疲労困憊自信喪失、最終的には自己否定の感情に陥ってしまいます。

その感情は本人の言動をより緊張したものにさせ、失敗したり、混乱したり、不安に苛まれたりします。子ども時代に教師に心理的圧力をかけられ、失敗を恐怖し、頭が真っ白になったり、混乱したり、あげくにパニック障害になった私。

今の私は、子ども時代の私を肯定できていますから、それでいいのだ、と受け止める事ができています。失敗しても、混乱しても、それでも大丈夫、と思えるのです。この感情はカウンセリングの中で、そんなクライアントさんにも及びます。

大丈夫、失敗も、混乱も、不安もあなたのせいではないし、そんなあなたの中にある様々な感情はわたしにもよく伝わってきますし、そんな気持ちになるあなたに、とても近しい気持ち、いとおしい気持ちになりますよ、それは昔の私に対する思いとおなじものだから・・・のようなニュアンスで伝える事もあります。

世間で失敗しないための知識やスキルを与える事ではなく、「失敗しても世間でどういわれても、そんなあなたの中から湧いて来た気持ちこそ真実で、その気持ちと私の気持ちをやり取りする中で、確かなものが育ってくれるといいな」との表現を伝えるかもしれません。

世間の物差し、専門家の知識、みんなの常識なんて実にうすっぺらいものと私は理解しています。現実の世界は簡単にはかれる程、一言で語れるほど薄いものではありません。ちなみに上の写真、開花したときは白く、数日かけて次第に赤く変色して行く箱根空木(はこねうつぎ)と、疎水に朝夕表れ、近所の人にイワシなどを頂いている、野生の蒼鷺、その近所の人に慣れていて、その人のすぐ近くにまでやってきます。いずれも、知ってみれば当たり前だけれど、知らない人には不思議な現実に感じられる事かもしれませんね。

まあ、よの中、いろいろあるのだ、それでいいのだ。とバカボンのパパは言うでしょう。







Last updated  2009/05/19 02:26:20 AM
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2009/05/17
今日はお昼からメンズカウンセリング協会の理事会でした。会議というと議題も質問もあらかじめ定められた通りに進められて、いわゆる議論にならずに、トップダウンの伝達システムのようなイメージを持っている人も少なくないかもしれません。

今の学校教育では、自由に考え、自由に主張し議論を交わすなどという事が自然におぼえられる状況ではないようです。個人的な意見は主張せず、全体の流れに調和する事が、正しい事、あるべき姿と考える人が多いように思います。

けれど、それではメンズカウンセリングにはなりません。力で相手の主張をねじ伏せたり、黙らせたりする事はメンズカウンセリングの理念からは反しています。ですから、できるだけじっくりと相互の語りを聴き、意見を交わす事で、新たな物語が生まれ、より良い結果が導かれるようにつとめるということでしょう。

思えば十年程前にメンズセンターの会議で、私の提案した当事者支援のための組織作りは、声と態度のでかい男のゴリおしで、あっけなくつぶされてしまいました。

これまで男たちが力による支配で女たちを傷つけ、自らも生きづらい世界を作ったという事に対するアンチテーゼとしてメンズリブを立ち上げた男たちだったのに、自分たちの都合の悪い事は力で押しつぶす、都合の良い権力支配にはすり寄る、という、なんともはしたない事をしてしまいました。そう言った連中はたしかに男性学をいいつのり、アカデミズムや行政のポストに食い込み、社会的地位を獲得して行きました。当事者支援に本気で関わる事はありません。

それ以来、言葉ではわかった風な事を言う男は信用しないし、その人の言動にパワーコントロールの匂いがするかどうかに、とてもセンシティブになった私です。

こんな私は援助においても、研修や講座、運営会議などにおいても、権力構造を作り出してパワーでコントロールして管理支配する、ということは極力しないように努力してきました。それが、今のメンズカウンセリングという援助論に発展して行く事につながります。

会議でトップダウンでやらずに話がまとまるのか、というご心配もあるかもしれませんが、ご心配なく。今日の会議も議題はすべてさくさくと進められ、ちょうど時間にすべて決められて終了となりました。すごっ






Last updated  2009/05/18 01:59:29 AM
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2009/05/15
今日は朝と夜にそれぞれ違う集まりを持ちました。朝はカウンセラー養成講座での実践研修を、夜はまつたくフリーな語りの場、フラナイミーティングを。

実践研修では、いわゆるカウンセリングのロールプレイではなく、クライアント中心雑談法とある受講生が名付けた、私のカウンセリングスタイルでの対話実践です。

カウンセラー、クライアントの役割を定めず、しかもカウンセリングモードでの語りで自由に対話するという研修でした。意図するところは、私たちはすべからく役割=スキーマに基づいて対話していて、深いところの意識を自覚してもいないし、その意識で対話している訳でもない。ロールプレイする時、それぞれの役割で語るので、日常的な対話にもならないし、感情を意識化することもない。そこで、役割をはずして日常的な対話をする中で、自身の感情の動きや相手の感情についてフォーカスしてみましよう。という事。

結果として、自由に語れることの気持ちよさを理解してもらえたようです。カウンセリングにおけるクライアントの心の動きを多少は実感してもらえ得たという事でしよう。そしてこれからは、カウンセラーの苦悩や喜びについても理解してもらいたいとの思いが私にあります。

さて夜はまつたくのフリートーク。語る人聞く人、居心地よく?眠る人、などなど。ここでは、深い話というより、面白い話が似合います。ここには掛けない、裏話、悪口、なんでもありの語りの場。これはこれでおもしろい。さてさてどうなる事やら。








Last updated  2009/05/16 01:14:01 AM
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2009/05/13
テーマ:心の病(7161)
今日は女のグループワークでした。三回目のテーマは感情に気付くだったかな。私たちは状況を理解しようとする性質があり、対象に着目するという行動になります。猫が動いている猫じゃらしに気をひかれ、腕をのばそうとするのに似ています。学習というより、DNAに組み込まれた性質かも知れません。

この対象に着目するという性質が元々にあり、目に見えるものや聞こえるものが対象になりやすいのですが、学習によって、人間関係やら評価やらの抽象的なものにも対象が及ぶ事になります。これが心理学で言う認知とかスキーマとかいう概念になります。

生育の中で学習する価値観やスキーマ(行動図式)はその人の人生にずっと影響していきます。ゴキブリが汚い怖いという反応はDNAの中にあるのではなく、学習によって引き出された反応です。カブトムシや蛍をみて、汚い怖いという反応にはならないからです。

今日のワークではそんな認知を「誰かにかけられた呪い」として言語化してもらいました。親や教師の言葉でこんな気持ちになり、こんな思いに縛られてしまった自分がいる、と話してもらいます。

さすがに女ワークです、母親らしく、とか、女の子らしく、お姉さんらしく、とか言う言葉を聞かされ、優しくあること、控えめである事、従順である事、世話役であること、などの呪いにかけられてしまいます。

そんな女の呪いが、自身の自己肯定感の充足を阻み、自己実現を難しくします。ひいてはそう言った役割意識に縛られながらもそれを十分にこなせない自分自身に大きな自己不一致を感じ、自己嫌悪や、罪意識を背負う事になってしまいます。

ワークではその呪いを解くために、とりあえず、呪いを語り、呪いに縛られない生き方考え方も話してもらいます。ちなみに私は教師に「アホな私は何をやってもだめ」という呪いをかけられたけれど今は呪い返しとして「私はアホだからみんなと同じにできなくて何がわるい」とか「アホなわたしにしかできないことがある」として「天才バカボン」を自称しワーク名は「天災バカボン=できんちゃん」としています。

参加者の中には呪いから解かれて「解呪=げじゅ」ふわっと楽になれた様子を語ってくださった方もいて、随分と私の心も心地よくさせて頂きました。まだまだみなさんの解呪が達成されるには時間はかかるかもしれないけれど、語り合う事でその方向に歩いて行けそうな、そんな気持ちにはなって頂けたのではないかと思います。

ほんと一人ではないってこと、大切な事とあらためて実感させられた私です。








Last updated  2009/05/14 01:00:57 AM
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2009/05/11
テーマ:心の病(7161)
先日の講座の中で、私は資格というものは権威によつて与えられたコントロールするためのパワーの一つ、と話しました。セラピーには資格は有害であるとの考えです。

そもそも人の心を扱うのに資格は必要なのか、という議論もあります。資格がないと人の心を癒したり元気にしたりしてはいけないのか、という事です。また逆に資格のある人は人を傷つけたり苦しめたりしないのか、というといかけでもあります。

講座の中でN教授は臨床心理士は何の役にも立たない資格だけれど、そんな資格を出す側にいると矛盾した現実を話してました。正直な人です。

私は私で、M・ホワイトの言葉も借りながら、資格がセラピーに有害である事を理論的に説明して行きました。臨床心理士とか産業カウンセラーとか、ちまたには心に関する専門家の資格があれこれあふれています。

まあ資格があろうがなかろうがどうでもいい事かもしれませんが(カウンセリングには資格はいらない)世間では、高い金と時間をかけて資格を取らないとカウンセリングができない、あるいは高い金と時間をかけて資格を取ればカウンセリングができる、と考えていて、その誤った考えを利用して、三流大学が(三流以外でも)学生確保のために心理系の学部学科を新設する、という現実があります。

臨床心理士なんかになろうと思うと莫大な金と時間が必要です。またその資格を取ったからとて、職場もあまりないし、なかなか食えるものではない、という現実もあります。ましてや、資格や権威に依存してクライアントを見立てようとする、力ないセラピストを粗製濫造するために素人から金と時間を収奪しているとしたら、ほんと心理系の大学は罪作りなものです。勿論大学だけではありません、啓発講座や◯◯カウンセリング講座・・などなど。

勿論、そんな権威に裏打ちされた立派な資格をもつたカウンセラーにカウンセリングしてもらいたいクライアントもいるでしょうし、そう言う方は資格のあるカウンセラーのところにいけばいいだけの事。

私は無資格である事を大切にしていますので、たまに資格の有無を問い合わせてこられる方には、簡単にその意味するところをお伝えしています。そのうえでご来談いただけるか否か判断して頂いています。また、クライアントの相手方から、資格がないことを誹謗されたり、まれに脅しのような事を言われたりもします。

けれど、カウンセリングを受けた後に無資格だからカウンセリングが下手だ、とのクレームは受けた事はありません。逆に専門家にいろいろ傷つけられたとの訴えを聞く事はしばしばあります。いわゆるプロに力がないという事はクライアントの話からはよくわかります。

ははは、私もどこかでクライアントに悪口を言われている可能性もある訳ですが・・・。味沢は無資格だからダメだったと。

まあ私に力があるかないかは別にして、カウンセリングに資格はいらんよねー。だからメンズカウンセラーの資格化を考えているけれど、この資格は、それを与える権威は国とかアカデミズムではなく、当事者であるという事。当事者が、当事者を傷つける事についてセンシティブな考えを持ってカウンセリングしているカウンセラーだと認定する、ということでしょう。








Last updated  2009/05/12 02:21:09 AM
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2009/05/08
メンズカウンセリング講座ではスタッフも含め五十人近い人が一つの部屋に集まり、意見を交わしました。多くの人が本音を話します。私は講師の立場で話したり、主催側として全体状況を見ていますし、対人緊張は感じません。こんな私の立場ではなく、スタッフはもう少し冷めた目で場を見ています。

昨日今日とスタッフとの語らいの中で私の視点では見えなかった状況などもスタッフは伝えてくれます。これは有り難いものです。思い出したり、再確認したり、気付かなかった事を教えてもらったりとの事があり、講座を再評価してみる事もできます。

確認できたのは、参加者の多くがあの場を、緊張しないリラックスできる場、自然に自分の本音が話せる場、とのように感じてくださっている事。

加害当事者も少なくないし、被害者支援の相談員も少なくない場です。立場上は対立する立場です。
テーマとしては決して軽くない語りがどちらからもなされます。けれど、対立が激化したり、場が荒れたりする事はありません。むしろ話し合ううちに、相互理解が進み、暴力の本質や、快復の真実の姿も相互に理解しあえる事になります。

専門家による、バイアスのかかった物語イメージで暴力やその当事者を見るのではなく、当事者の語りから暴力や快復の真実の姿を理解する事ができるのはすごい事と思います。こんな場は日本には他にはないでしようから。

なぜそうなるのか、と自問するなら、まず、講師の立場で話す私は場をコントロールすることはしませんし、様々なパワーを行使することを極力控えますし、参加者の語りに受容的共感的に答えるようにしているからかもしれません。

それになにより、参加者ひとりひとりが、メンズカウンセリングという言葉や脱暴力という言葉に自身の攻撃的な感情を控えてくれているのかもしれませんし、リピーターの参加者は、対話の仕方をよりヒートアッブする方向ではなく、共感的に理解する対話をしてくれているのもわかります。

そう言う意味では、参加者全員が上も下もなく、一人一人を大切にしようとしているが故に成り立つ場の力だと言えるかもしれません。スタッフと強く意を同じくしたのは、場が育って来たよねーという事。育ててくださった参加者にほんとに感謝です。

講座がひとつのサンクチュアリーになりつつあるのを実感した私です。参加されたみなさんはどのようにお感じになられたでしょう。また参加されなかったみなさんは、ブログを読んでどうお感じでしょう。こんなのあり得ると思いますか?







Last updated  2009/05/09 07:49:36 AM
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テーマ:DV・虐待(96)
「DVは犯罪です」という言葉が、先日の会議でも語られたかどうかはっきり記憶していないけれど、戦争は犯罪か、という言葉は出てきました。

犯罪です、やめなさい、という言い方はよくされます。政府ポスターでも「DVは犯罪です」みたいな言い方をしています。駅でも痴漢は犯罪です、と電光掲示板に。

私はこういった表現を見るたびに、???と言う気持ちになつてしまいます。政府が何万枚も大きなポスターを刷って配布するにも莫大な予算が使われているだろうけれど、それは、DVを減らすためなのか、政府のアリバイ作りなのか、予算消化なのか、業者業界の利益確保なのか、性格の歪んだ私はあれこれ考えてしまいます。

たしかに、犯罪かどうかで迷うような行為については意味があるでしょうけれど、万引きのように犯罪行為をする事で自身の心理的な安定を維持している人には、犯罪であるからすると言えなくもありません。

また、合法的な世界では行きて行けない人たちにしてみれば、犯罪行為でしか行きて行けないという事もあり得ますし、その人たちはあえて犯罪行為を選ぶしかありません。

犯罪だからやめとこう、と思えてやめれる人は、やめても行きて行ける世界に住んでいて、やらずに済むその他の生き方を理解している、恵まれた人たちです。そんな恵まれた人たちが自分の安全を確認する自己満足のための言葉が「犯罪ですやめなさい」かも知れません。

犯罪を本当にやめさせるには、犯罪をやらずに行きて行ける世界を私たちが作り、また犯罪をやらずに済む生きる力を彼らに与える事が必要でしょう。もちろん、暴力抑止のための法的処置は必要です。迅速で正確な判断に基づいた協力な法的介入は作るべきです。・・・が、犯罪ですやめなさい、という言葉は当事者には影響力があるとは思えない私です。

DVも虐待も同じです、パワーコントロールで人を抑圧する社会を終わらせ、当事者が暴力なしで行きて行くためのスキルや価値観を身につけられるような、学びの場を提供する事です。そのために野放しは早急に改めるべきでしょう。

暴力のおこる様々な原因については研究も調査もせず、単に暴力を振るった人の意識だけに問題を転嫁し、暴力は犯罪です、と言うだけで、あとは野放し、これでは、暴力がなくなるはずもない。

なのになぜそう言うのか、裏が見えてきません?みなさんどうお感じです?






Last updated  2009/05/08 09:54:41 AM
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