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味くんの家族再生支援日記

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メンズカウンセリング

2009/09/02
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昨日の女ワークでは怒りにフォーカスしてみました。パット・パルマーの「怒ろう」を輪読し、シェアリングした後、それぞれ怒る時の自身の表現についても語って頂きました。

なかなか、そんな状況でないと怒りを表現できないとの事だけれど、その状況だと、怒りに火がついておさまらなくなるとの事、怒りに支配されてしまうということらしい。

けれど、その状況を冷静にみてみると、どんな感情があるかというと、傷つけられた悲しみや、無視された痛みが心の奥底にあり、それが状況でわき上がって怒りに転化するとのこと。

また悲しみや痛みがあっても関係の中では怒りを表現できないでため込んでしまうしかない者の苦しみもある。

暴力は受ける方もふるう方も悲しみや痛みにあふれているってこと、それが昨日の女ワークの学びだったような気がします。

考えてみれば、私はもう自分の体験としての悲しみも痛みもかなり終わっていて、刺激されて怒りに転化することはほとんどありません。歳取ったからと言う訳でもないでしょうが。ただ、個人的な怒りはないけれど、社会に対する怒りはふつふつと湧いていて、私の活動のエネルギーになっているのも事実。

怒りが暴力に転化するのはよくないとは思いますが、怒りの感情は大切にしたいもの。生きるためのエネルギーでもあるからねー。






Last updated  2009/09/03 03:58:47 AM
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2009/09/01
ランニングコース


ランニングコース2


昨夜はいつも使っているパソコンのブラウザではブログの管理画面に入れ無くなりました。アクセスが増えて入れません、との表示になってしまいます。で、今朝は古いパソコンの古いブラウザソフトで管理画面に入ってます。

昨日のブログでも書いたけれど、ヌエックに泊まった朝は二日とも10キロほどのランニングをしました。写真のように走りやすく美しいコースです。

ヌエックには昨年がはじめての参加です。それまでは怖いフェミ先生たちの集いというようなイメージがあって、参加できませんでした。

が、実際に行ってみると怖いフェミ先生はほとんど見当たらず、分科会でも私の発表には共感を示してくださる参加者がほとんどでした。

今年もほぼ昨年と同様の内容で話しました。被害者の快復と加害者対応というテーマです。現状のDV防止法や関連制度、被害者支援のあり方は、DV男は変わらないという大前提で組み立てられていますから、強制的分離一辺倒の支援になりがちで、それは、被害当事者の不安をあおり、家族の対立を深化させ、離婚後の生活保証さえ危うくするという、大きなデメリットを含んでいます。

メンズカウンセリングでは、そういった援助の押し付けにならないよう、援助の中に権力構造を極力持ち込まないよう、常に援助者の自戒を求めます。

離婚するにしてもしないにしても人間関係としては修復的なアプローチを選びます。暴力に対しては毅然としながらも、相手に恐怖や不安を感じなくてすむよう、またクライアント自身の言動が暴力的にならないよう、クライアントに寄り添います。

そんなこんなを話したけれど、今年の参加者もしっかり聴いてくださったようで、質問や意見もとても肯定的で意味深い発言をいただきました。ほんとうに感謝です。







Last updated  2009/09/01 09:26:15 AM
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2009/08/23
秋空



今朝は少し涼しくて朝トレも気持ちよく走れました。少しずつ体型も昔の美しさを取り戻しつつあります。

昨日は四国は某県の「家族の非暴力トレーニング」に出かけました。高速バスで向かいましたが渋滞に巻き込まれてハラハラ。決局十分の遅れでした。

駅前の地図でみると歩いて行けそうなので歩いていたけれど、予想以上に距離があつて五分の遅刻。準備も打ち合わせもなく、ワークに。

すこし遅れての参加者もあつたこともあって、イントロ出会い系のワークに。簡単な近況報告の後、自分の好きな人嫌いな人を紹介してもらうというワークを。

自分自身を紹介するより、自分の好きな人嫌いな人を語る方が、自分の体験や感情をよりリアルに語る事ができるので、より自分を理解してもらえることになります。その中で、家族や職場で傷ついたり支えられたりしている自分をあらたに発見する事ができます。

つぎに行ったのが「こどもはわがまま」というワーク。言う事をきかないで人に迷惑をかける子どもにどう対応するかというもの。日常的には「◯◯しなさい」とか「××してはいけません」とか、善意や教育的配慮で、子どもをコントロールしようとする私たちがいます。

けれど、それがほんとにいいのか、あらためて参加者どうしで語りあつてもらいます。その語りを紡ぎながら私も語りました。(少し語りすぎたかな、反省)

私たちが昔一方的にコントロールされた事で傷ついているのに、私たちはまた親として子どもをコントロールしてしまう存在になっているという、家族や社会におけるパワーコントロールの連鎖にうすうす気付いてくださったことと思います。

私や参加者どうしと深い思いをたっぷりと語り合う事で、自分のあるがままを受け入れてもらうと言う事の意味も実感してもらえたのではないか、自分の思い込みから自由になる事で、自分も人も受け入れる事ができ、ひとりではない、という深い安心感と信頼を感じてもらえたのではないか、とも思えた、新たな出会い。

こんな出会いの輪があちこちに育つと言いな、と実感。場を作ってくれた参加者に感謝。特に主宰されたTさん遠くから助っ人参加してくださったNさんには有り難く思いました。感謝にみちた、新たな出会いでした。







Last updated  2009/08/23 09:27:15 AM
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2009/08/21
先日、急のカウンセリング依頼をうけてたまたま空いてたので、即来談と言う事がありました。もともと家族関係は良好ではない方で、悩みを自分で引き受けてしまわれるタイプでしようか。

こんな方は対人関係としては激しい事にはならず、自分の世界に閉じこもる事を選ぶ傾向があります。たちまち問題は表面化しないけれど、長期的には何が問題なのかはっきりしないまま、不全感の中で暮らし続けると言う事になりがちです。

その方は、カウンセリングをはじめた頃は、緊張も強く、ことばも少なかったのですが、カウンセリングを重ねるうちに、表情が柔らかくなり、言葉も多くなりました。ほんとに対話が心地よく、深いラポールができている安心感を感じさせてくださるようになりました。

先日の来談は、そんなその人の突然の大胆な行動の結果の来談ですが、家族にすれば、突然の問題行動、に見えたのかも知れません。けれど私はその方のお気持ちを聴いているから、それが問題行動とは思えず、むしろ、問題と直面化しようとしない家族に対する、問題提起のようにしか思えません。

ある行為が問題行動なのか、主体的自己決定行為なのか、それは見る視点によります。他人の言説、専門家のラベルの視点で見るよりも、当人の視点で見るのが一番理解しやすい方法のように思えます。

けれど、当人の口を封じて専門家の知識を入れ込もうとすればする程、問題は大きくなるような気がしてなりません。

それにしても、その人がそんなことまでできるようになった事がとても嬉しくて、ついにこにこしながら(お互いに)対話していた私です。家族の混乱も見えてくるので、なんとも複雑な気持ちではありますが。






Last updated  2009/08/22 04:05:24 AM
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2009/08/19
テーマ:家族(111)
昨夜は一時間程、パンフ作りに精出してました。出来上がってプリントして・・・までは良かったけれど、データ保存したのはなんども繰り返し確認しましたが・・保存したはずのデータがぜんぶ、まっしろけー。

くっそー、とまた一からやりなおして、また1時間。決局四時間の睡眠が二時間になってしまいました。で、朝トレはさすがにしんどくて、はじめてパスしました。

で、重いまぶたで、ぼーっとしながらもなんとか午前中の仕事をこなして、昼からは女ワークでした。新規参加の方がたくさんおられてどうなる事かと思ってたけれど、いつもの方でお休みの方も何人かおられて、人数的には、そこそこバランスがとれました。

それでもトータルで十一名のワークになったので、けっこう大変です。セッションとしては終わりの方ですが、新規の方が数名おられたので、イントロ系のワークに変更しました。

ありのままの自分を語ると言う事、なかなか日常的にはないけれど、私のワークではそれが自然にできてしまうようで、みなさんしつかりと自分を語ってくださいます。

一般的にファシリテーターが様々なバイアスに縛られていると、知らず知らずに参加者の言動をコントロールし、口を封じてしまいがちですが、私はバイアスに縛られていないのでしょう、私のワークでは、ほんとみなさんよく語ってくださいます。

女ワークでは、脱暴力と言いつつ、加害・被害を特定しない表現で参加を呼びかけていて、参加者は夫婦間、親子間で、被害もあれば加害の立場の人もおられます。

女性が自らの加害者性について、自由に語り、それをまたみんながちゃんと聴く事のできる場、そんなとても不思議な場は、不思議な力に満たされます。私の眠い目もちゃんと覚醒しましたとさ。






Last updated  2009/08/20 02:56:40 AM
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2009/08/08

先日の学歴妄想だけではないけれど、インフルエンザ妄想、通り魔殺人妄想、などの集団妄想てんこもりの現代日本。これらはマスコミが振りまく不安によって引き起こされる集団ヒステリーの親戚のようなものかも。

インフルエンザで死ぬ人も少しはいるかも知れません。通り魔や押し込み強盗に殺される人がいるのも事実。けれどわずかな人数、宝くじに当たるよりも少ないはず。

少なくとも交通事故なら毎日二十人くらいは死んでるし自殺なら、毎日百人近く死んでるから、心配するならこっちを心配すべきでしよう。けれど、交通事故にあうのが怖いから、車には乗りませんという人は少ないし、自殺してほしくないから、ひどい会社をやめてもらいます、と言う人もあまりいません。

よーするに人々の不安に基づいた行動にはあまり根拠がなく、リスクマネジメントからはほとんど無意味な行為でしかないでしょう。ではなぜ行うのか、ねこじゃらしにとびつく猫のようなもの、と私は見ています。

人は情報に引きつけられるという性質があるようです。さらにその情報から意味を見いだそうとします。これは遺伝プログラムに学習効果が加えられた反応でしょう。こんな人のもつねこじゃらし反応をうまく利用して、経済的利益を得ることのできる人たちもいるでしょう。

人々が安心して何もしないより、不安に駆られて何かする事で確実に経済は大きくなります。隣が普通車ならうちが軽というのはみっともない、とか、あの人が短大なら、うちはできれば四大に、とか、マスコミを通じてあおられた不安、もしくは優越感に駆り立てられて、経済行為をする。不安は際限なくあおられるから行為に終結はあり得ません。

ここまでなら、まだあおられる人のバカさ加減を笑っていればいいだけの事だけれど、問題はそんなに簡単ではありません。不安や欠乏感をあおられる多くの人たちは常にフラストレーションを抱え、それは潜在的な怒りを内包します。

この怒りは弱者やマイノリティーに向けられます。また社会規範を逸脱した人や犯罪者とラベリングされた者にも向かいます。社会に抑圧され不条理な人生を余儀なくされた者にとって抑圧する社会はリベンジの対象でしかあり得ません。

極端な事を言えば、車に乗りハンバーガーを食らうアメリカ兵に家族をなぶり殺しにされた貧しいアフガンの農民にすれば、個々のアメリカ人という意味はありません。アメリカ人に対して爆弾抱えて突っ込む事が正義でなくてなんでしょう。

、親に受け入れられずに育った宅間氏は学歴コンプレックスを肥大させ精神科医に処置入院させられて人を信頼しなくなります。彼はリベンジの方法に池田小を選びますが、彼にはそれは必然です。誰でもいいのではなく、池田に象徴される学歴エリートの系譜でしょう。

数年後に秋葉原事件を起こした彼は宅間氏の事件を受け継ぎます。池田の命日に宅間氏の陳述に基づいて犯行を決定します。が、リベンジの対象は秋葉でチャラチャラしている連中です。彼も大きな挫折感を育てています。

善悪をわきまえないおかしな人間がそんな事件を起こすのだから、そんなやつは早く死刑にすればいい、としか世間は考えません。誰もが持つ人の心の闇に光を当てようとか、自分もまた誰かを抑圧しているのではないか、と自省する事もありません。

携帯GPSを子どもに持たせてしっかり塾に通わせても、何の解決にもならなかったとわかるのは子どもが交通事故にあったり、父親が自殺したり、子どもが心病んでしまったりした時でしょうか。

自分の人生に何がほんとに必用なのか、自分の人生の意味は何なのか、ぎりぎりまで追いつめられないと人は何もわからずに終わってしまうのでしようか。少なくともテロリストにはその迷いはないのかも知れません。自分の命の意味も死の意味も理解しているのだから。

そしてそんなテロリストを育てるのは、恵まれた私たちの不安に基づいた差別意識でしょうか。テロリストにテロをやめさせるには彼らから別の人生の意味を見いだすチャンスを奪わない事、リベンジしか意味が無くなるような暴力を弱者に加えない事、でしょうか。

テロリストも私たちも不安や怒りと言う心の闇を共有しています。あちらとこちらであるいは善と悪で線引きできるものではありません。

暴力やテロと言う問題の本質は、私たちが人として大切なものを失ったと言う事かも知れません。すべてのひとりひとりを大切にし、みんなで育ちあう、ともにある事の意味を私たちが忘れてしまったということなんでしょう。

この事に多くの人が気付く事ができるのか、できないまま人類の荒廃にすむのか、いったいあなたには、そして私には何ができるのでしよう。

数年前になくなった敬愛するニキ・ド・サンファールは「テロリストになる代わりにアーティストになった」と言ってたけれど、私も社会に対するリベンジは私の存在動機です。ただしテロリストと違って、暴力は使いません。非暴力と愛でしょうか。媒体は違うけれど、心はニキとおんなじかも。

ああ、今日は禅問答になってしまったのかも知れませんねえ。







Last updated  2009/08/09 01:18:08 AM
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テーマ:心の病(7127)
今朝もトレーニング。昨日と同じ山中八キロコース。13分タイムアップして15%ほどの時間短縮に。かなり身体の負荷が大きく、帰り着いてもしばらくはぜーぜー言って、汗もひかなかったけれど。

こんなハードな状況にも身体はちゃんと耐えてくれるのでありがたいですぅ。こんなハードな事も自分の意志でやってて、楽しめているから不思議です。他人にやらされてたらとてもじゃないけれど耐えられないでしようねえ。

私程の年齢になると、ランナーやスイマー、クライマーなどは別として、多くの人は身体機能が低下するとともに、精神的心理的な能力も低下する人が少なくないように思います。

職場の限界、自らの可能性の限界、体力の減退、疾病への不安、死への恐怖、などが感じられて、前向きに自分の人生を考えられなくなるようです。

刹那的に食べたり飲んだりする事、旅行したり趣味に没頭する事に逃避し、不安から逃れる事も少なくないでしょう。

また、不安を一挙に解消するために宗教に走る人もいるかも知れません。◯◯したらあちらの世界にいけて、一挙に問題がなくなる、という思考(妄想?)にみんなと一緒に入れば(信仰)、不安からは逃れられるかも知れません。

確かに私も強い信仰心はあって(特定の宗教宗派には属さず個人契約)あちらとつながっているって安心感はあるけれど、◯◯したらあちらに行ける、だから今の現実には目をつぶっていい、とは考えません。

むしろ、あちらもこちらもつながっていてこちらで◯◯する事に意味があるのではなく、こちらの世界にあちらの価値観を持ち込む事に意味があるのであって、そのための心身を預かっている、という思想を持っている私。

こんな私だから、私はこちらの価値観にはそぐわないトンでも言説みたいな事を語ったり、行動したりします。これは他者にはとても違和感や嫌悪感を覚えるようで、反論されたり拒絶されたりも当たり前。

けれど、私はそれで自分が自信をなくしたり、弱って病に冒されたりもありません。常にマイペース、自分の身体にも生活環境に対しても、かなりの負荷をかけても、それを成長のエネルギーにしようとするどん欲さ、自己信頼感はすごいものがあると自分でも不思議です。

自分に負荷をかけつつ、自己成長していく行為が、私には「修行」のように思えるこのごろ。単に苦しみに耐えて、他者との違いを確認することではなく、人はだれでも自己を知り自己を受け入れ、世界とともにある事で、どんな存在にも変容しうる、と言う事を自他に確認する事が、私の修行かな。

まあこんな話しは心理の世界とは一線をかくす世界の話しなので、日常的にはあまり話さないけれど、たまにはこんな話しもいいかなって、書いてみました。

私が私であることの意味が少しは感じてもらえたかな。






Last updated  2009/08/08 09:14:55 AM
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2009/07/26
講座も無事終了。とにかく手持ちの材料を出してみて、試行錯誤の第一回。参加者の方からはいろんな意見が出されて私にとってもいい学びになりました。そして何より、一緒にやっていこうね、と、思いを重ねる仲間ができた事が、今回の宝です。

思いを重ねる・・価値観を共有する事がどれだけ大切な事か、運動体や組織を維持するにはそれはとても大切な事。その点、企業とか、宗教とか、アカデミズムの世界は共通の価値観を前提に組織されているから、運営する者には有り難い話し。

けれど、ボランティアグループとか目的の曖昧な組織は、構成員の動機もまちまちで、価値観の共有がとても難しい。私の主宰するレターカウンセリンググループだけでなく、いろんな電話相談でも同じ事が言えるようですが、募集してもワーカーにまで育つ割合はとても低いものです。金にもならない、資格も権威も得られない、そんなこと誰がしますかってところでしょう。

営利を目的としていれば、講座生から多額の参加費をとり、不安をあおったり、逆に資格や権威を与えて、脱落を防ぎたくなるでしょう。私はそう言う目的では活動していないので、レターカウンセラー養成に関しても、さほど参加費をとりませんし、有償の援助提供にしても高額な利用料は取らない事にしています。

で、しばしば訊かれるのが、私の動機です。動機を意志や感情を源泉とするとしたら、それは言語化がとても難しい。社会システムに適応できない自我が根底にあり、それはアウトサイダーとしてサバイバルするスキルを身につけさせます。そもそもこんなプロセスを多くの人は体験しないから、理解不能。その時点で説明をあきらめてしまう私です。

まあそれでもあいてがどう思おうとかまわないところでの発言として話すなら、ずっと以前なら、リベンジと言う言葉を使っていました。その思いは今でも存在します。けれど、多くのクライアントにカウンセラーとしての認証をいただけるようになってからは、リベンジに加え、社会に対する問題提起と言う意味が加わり、ロゴセラピーの言葉を借りる事のできる今は、創造、体験、態度の価値基準を自身の内に見いだしているから、と答える事も可能です。

私は世間としての他者の評価を自身のドライバー・・行動の動機にすることはほとんどありません。子どもの頃から他者に評価されたと言う体験があまりないからでしょうか。(こんな私からすると、ほめ育てというのももひとつ引っかかりがあります。他者の評価に依存するパーソナリティーになるのではとの危惧がありますから。プロセスとしては承認欲求はみたされるべきというのも事実と思いますが)

また私は世間としての他者、世間の価値を受容はしても評価はしません。この辺りが私が他者に理解されないと言う事の鏡像の行為でしょうか。だから世間と言う他者に抑圧されて壊れかかったパーソナリテイーに対しては無条件に寄り添う事も可能ですし、そんなクライアントからエネルギーを受け取る事が可能となります。これがフランクルのいう体験価値というものかも知れません。

最近、あるクライアントと話す機会があるのですが、その方はとても聡明な方で、しかも感性豊か、そのキャラのせいでしょうか、社会のシステムとは折り合いがつきにくいようで困っておられます。けれど、その方は私の言葉、私の概念をなんなく理解するだけでなく、けつこう面白がって下さるし、私をきちんと理解した上でそれなりに認証してくれます。私の難解な概念を当たり前のように受け入れてくれるその方に随分勇気を頂いた私です。概念の創造と言う私なりの価値とそれを理解しおもしろがってくれる他者との共感と言う体験の価値と。

それと難しいのが、態度の価値。どこかのサイトにはこの言葉を説明するのに、死に行く人のエピソードが語られていましたが、死に行く人の態度なら理解しやすいのですが、元気な人に内在する態度の価値、これは他者から見たら理解できる行為なら善行だったり偽善だったりする訳ですが、まったく理解できない行為なら奇行だったり無意味な行為でしかありません。けれど本人にすれば、自身の尊厳としての行為であり、他者の評価のためではありません。

アウシュビッツの中で死に行く者に自らのパンを与える行為、古くは最愛の息子を神に生け贄にささげようとしたアブラハムの行為は、アホな私には到底まねのできない行為だけれど、それもみずからの尊厳を理解する者の態度の価値でしょうか。世間は彼らをどう評価するのかな。

世間からいえば父親としての家族責任を果たさないバカ親父である私だけれど、そんな私はロゴセラピーで言うところの人生の意味を理解しているが故に、私であり続ける事ができるし、私の行為やその結果に確信と責任を持つ事も可能。わたしの存在や私の行為に対する他者の評価で一喜一憂することもないでしょう。

ロゴと言えば、ロゴセラピーを言ってたえらい大先生、エラくなる程に私から離れ、ついぞ顔見て話す事はなくなりましたが、彼が弱ってた時こそ真実の人生だったのかも知れません。私はまだまだ弱りそうにないけれど、真実の人生を生きてます。それというのも私を支えてくれているのが多くのクライアント、いけね、こんなに書くとクライアント依存だのクライアントを自分の満足に利用しているだのいわれっちまうなあ。まあ、クライアントも元気になり私も元気になってるんだからいいですよねえ。そのためのカウンセリングだもの。もちろんクライアントの方で私に傷つけられたって方は私にそう言ってくださいね。


























Last updated  2009/07/27 04:05:01 AM
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2009/07/24
テーマ:家族(111)
明日はペア・コー養成講座です。チラシでは二日間の講座のラフなスケジュールを書いていたけれど、昨日までほとんど準備できていませんでした。なんせこのかたカウンセリングがとても多くて、時間がありませんでした。

今日はカウンセリングも二件、しかも一件は半時間のみ。他に仕事は入ってなかったので、結構サクサク仕事がはかどりました。スタッフも私のアウトプットを形に仕上げたりしてくれて、二日間の講座の内容がまとまって行きました。

ふしぎふしぎ・・・と言うと、ハラハラしてしまう人もいるのかな。でも私の行動パターンは昔っからこんな感じがあります。

思い出すのは学生時代、東北出身の小谷さんは、試験のひと月前から着実に資料を集め、確実に学んでいました。彼は「オレ頭悪いし」と言ってたけれど、その着実な努力の姿勢は崇高でもありました。彼はほんとはすごく粘り強くかつ賢い人だと当時の私も理解していました。

私は毎日飲んだくれてはバイクに乗り、荒んだ日々でした。試験数日前になって、小谷さんはもちろんいろんな人のところに行って、人のまとめた資料をコピーし、ヤマを張ります。そのヤマを記憶する事はできないので、外部記憶として・・・いわゆるカンニングペーパーみたいなのを作ります。追試でいける科目は捨て、確実な線でヤマを張ります。

当日は、ペーパーなりわずかな内部記憶を総動員して、答案をかき込みます。ああ、ハラハラ。
こうやって試験をクリアしていった私の学生時代。非常識、反倫理ではあるけれど、犯罪行為とまではいかない、私の試験実践。まじめに学んでいる人からは、嫌われるでしょうねえ。

今にして思えば、私がそのようなパターンで状況対応、あるいは情報処理していたのは、実は子どもの頃からの記憶力や情報処理能力が普通の人とは随分違っていたからなのです。他の子どものようには覚えられないし、理解する事もできません。

面白いのは、(今は面白がれるけれど当時は真剣に)リコーダーを演奏するにも、楽譜が読めない私は吹く事ができません。何度も繰り返したら覚えるのだろうけれど、覚える前に終わってしまいます。私はどうしたかと言うと、となりの子どもの指使いを見てリコーダーを吹いていました。

他の子どもたちがふつーにできる事が私にはほとんどできず、他の子どもが理解できない事が私には難なく理解できていました。私の頭の中は混沌、カオスです。合理的な情報処理は不可能。けれど、偶然のように超難解なクリエイティブなイメージがするするとカオスの山から落ちこぼれてくるのです。なぜだかわかりません。

ヤマを張る事、本試と追試を使い分けて対応する事、これらは確率的にはあまりうまい方法ではないでしよう。ちゃんと記憶した方が確実に決まっています。それができる人には。けれど私にはそのフツーの事ができない分、ヤマ張りのセンスがすぐれて行ったのかもしれません。カオスの使い方を私のニューロンシナプスネツトワークは覚えて行ったのかもしれませんね。

私の頭はそう言う訳で、今でもカオスを前提としているようです。時間軸やら空間軸を超えて、様々なデータをつなげて理解して行きます。その分当たり前の整理整頓システムが動きません。

ああ前置きが長くなってしまいました。今日の仕事のサクサクは、ビジテーションのイメージやらそれにまつわる記憶やら過去の資料や品物やらをさわっているうちに、頭の中でデータが組み上がって不思議とかたちになってできていったのです。

ああ、ビデオがあった、ああ、報告書があった、そう言えばこんなテキストがあった、それらをパソコンの画面の中で、つなげていきます。ラフな骨組みはチラシのプログラムの他に以前書いた、ボツの論文も使いました。

こんな事書くと、なにやらいい加減な内容に感じられるかもしれませんねえ。決してそうではありません。ビジテーション・・・ペアレンティングコーディネートをこの六年間続けて来た実績は勿論、その実践の前提となる知識やら活動実践もあります。それらは整理された学術資料として存在するのではなく、私の頭の中、スタッフの心の中に確かなものとして実感を伴いつつ存在しています。私はその頭や心にある体験や記憶を言葉にして、アウトプットする事ができます。混沌から引き出すのだから、さほど時間はかかりません。

と言う訳で、サクサクの準備の一日でした。お疲れさまー。また明日みなさんよろしくねー。










Last updated  2009/07/25 02:21:33 AM
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2009/07/21
テーマ:心の病(7127)
今日もハードな一日だったけれど、夜の料理教室がキャンセルになったので、少しのんびりしました。が、朝から夕方まではほんと分刻みの一日でした。

カウンセリングが四件いずれも暴力がらみのケースで、男性三人女性一人です。彼らの話しを聞いていて、つくづく暴力当事者に対する適切な相談ができる窓口がない、専門家がいないという事を実感します。

しばしば、DVは治るかとか、精神科で薬をもらいました、とかいう言葉を当事者や関係者から聞く事があります。世間は戦争は治るかという言い方はしないし、やくざの抗争は治せるかとも言いません。なのにDVは個人の心の病気だと理解しているのです。DVが薬で治るなら、世界中の政治家や軍人にその薬を飲ませたら戦争もなくなりますよねえ。

理解できない「家族への暴力」をふるうのは病んでいるからだ、しかるに治療方法があるのではないか、との発想が生まれるのでしょう。このように世間は家族の暴力に対する二重にも三重にも誤った理解をしていて、誤った理解は誤った判断をし、問題を先送りにしたり、よけいにこじらせてしまいます。実際DVも虐待も防止法にも関わらず減る事はありません。

暴力当事者に対する相談やカウンセリングを行うには、法律や制度に対する知識、暴力の発生する人間関係に対する社会学的理解や心理学的理解、脱暴力や安全確保のための具体的援助スキルやチネットワークは不可欠です。

けれど、今こういった事のできる相談窓口も援助者もほとんど皆無です。DVや虐待をなくすには罰則強化、シェルターの増設という短絡的な発想に頼るのではなく、これまでの行政のDVや虐待に対する施策の有効性について検証することとあわせて、無意味な欧米のプログラム研究ではなく、当事者に対する真摯な調査研究をすべきでしょう。

これまでの二千五百件近いカウンセリング実績・・そのうちかなりの割合でDV当事者は存在する・・・から私が学んだ事は多々ありますし、その援助論やカウンセリング実践について、皆さんにお伝えしたいとも思います。秋の男性相談員養成講座や来春のメンズカウンセリング講座などでお伝えできたらと思います。ぜひご参加くださいね。








Last updated  2009/07/22 01:46:13 AM
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