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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 1(小説)

(これは以前私のHPに掲載した小説の再録です)


 それは、すべて失恋のせいなのであった。
 普段はそんなこと思いもつかないような真面目な人間なのに、失恋のショックで、勢いで、ついあんなことをしてしまったのだ。

 
 ――こんな感じでどうだろう。
 先を読みたいと読者に思わせる、インパクトの強い書き出し。
 ……でも、厳密に言うと「すべて失恋のせい」ではないんだよなあ。誇大表現とか言われるかなあ。でも、今はこれ以上のは考えられないんだよな。
 うーん。とりあえず続きを書いてみよう。書いているうちに、もっといい書き出しを思いつくかもしれないし。


 順を追って説明しよう。
 私は、地方銀行のとある支店に勤める、ごく普通の真面目なOLである。
 血液型はA型。髪は真っ黒でストレート。私をよく知る友達からは、「あんたは銀行員にむいている」と言われていて、私もその通りだと思う。
 部署は業務係。普通預金や当座預金の新規口座を開設したり、入出金を行なう係である。
 バブルと呼ばれていた時代より、来店客数も取扱件数も減ったと先輩たちは言うが、その当時よりもリストラが進んでいる。つまり、行員一人当たりの仕事量はかなり増えているのだ。
 それなのに、ああそれなのに、上は何を考えているのか、毎年新入行員の二割くらいは仕事のまったくできないお嬢様をお雇いになるわけで。
 もちろん、彼女たちの背負ってくる千万単位の預金は魅力的だ。彼女の親または伯父または知り合いの経営する会社との取引も強化され、それだけ見ればめでたしめでたしだ。
 どうせお嬢様たちは、二年もすると結婚だの海外留学だの理由をつけてお辞めになられるので、その間の給料を差し引いても旨みはたっぷりとある。
 しかし、現場の人間にとっては大迷惑だ。ただでさえ仕事が多くてサービス残業の毎日だというのに、彼女たちのカバーまでしてやらなきゃならない。
 そしてもちろん、なんのコネもなく入行した私は、彼女たちのカバーをする役なわけであって。
 私の直属の上司である業務課長は、上役や取引先などには卑屈なぐらいにぺこぺこしてみせるのに、私のように何のバックもない、立場の弱い人間には態度のでかい、典型的な嫌なやつなのである。
 定刻間際に課長が回してくるお嬢様のやり残しの仕事を、私は生真面目にこつこつとこなしていくしかなかった。
 お嬢様が五時になるといそいそと帰り支度をするのに、私は社会人となってからのこの二年半、定時に帰れたことなどないのであった。

 そんな私でも、心のオアシスはある。学生時代からつきあい続けている彼である。口には出していないが、私は彼との結婚を意識していた。
「何で毎日毎日、こんなに帰りが遅いんだよ」
 約束していた待ち合わせ場所の、ホテルの一階にあるレストランに遅刻してやってきた私に、彼は溜息をつきながら言った。
 彼の前には空になったコーヒーカップが置かれ、灰皿には吸殻が堆く積まれている。
 二年後輩だった彼は公務員試験に合格し、この春からコネを最大限活用して市役所に勤務していた。今のところ、毎日定時に帰宅する生活である。
「仕方ないじゃない。忙しいんだもの」
 注文したカルボナーラを食べながら、上目づかいで私は言った。
「俺の友達の彼女も銀行に勤めてるけど、毎日定時に帰ってきてるぜ」
 それはコネで入社したお嬢様なのよ、と説明しても、彼には通じなかった。
「おまえ、結婚しても仕事はやめないんだろ。毎日こんな状態じゃ、俺晩飯どうしたらいいんだよ?」
 口から麺をぶら下げたまま、私は彼を無言で見つめた。
「母さんにも言われてるんだよな。おまえは忙しすぎて、俺の世話はあんまりできないんじゃないかって」
 私は、ずずずっと音をたてて麺を口の中に吸引した。鳥肌が立っていた。そしてフォークを置くと、ナプキンで口の周りを拭った。
「だったら一生お母さんにお世話してもらったらいいじゃない」
 そう言うと、ナプキンをテーブルにそっと置き、後も見ずにレストランを出ていった。
 ――が、ホテルを出ようとしたところで、足が止まった。カルボナーラ代を払っていないことが気になったのである。
 年下で給料も私より安い彼におごってもらうのは、私の信条に合わない。
 癪に障るが消費税込千二百五十円を渡してこようと踵を返したとき、レストランから出てこようとする彼の姿が見えた。
 私は咄嗟に大理石の柱の蔭に隠れた。派手な服を着た若い女が、彼の腕にぶら下がるようにして歩いているのが見えたからだ。
「やるわねー。マザコンのふりをするなんて。あたし、後ろのテーブルで吹き出しそうになっちゃった」
 二人は、柱の蔭の私にまったく気づいていなかった。彼の手に、このホテルのルームキーが握られているのがちらりと見える。
「あいつはマザコン男が大嫌いだからな。これで俺には近寄らなくなるだろ。誰も傷つかない、最良の方法ってやつ?」
 二人の笑い声が遠くなり、やがてエレベーターが上の階へ上がっていくのが見えた。
 私はよろけながら、柱を離れてホテルを出た。

 家に帰ると、私はいつもの習慣で、機械的にパソコンを立ち上げた。ブックマークされているホームページを開く。
このホームページは、私が銀行に就職が内定した頃に開設した、自作の小説中心のサイトだ。
 学生時代、文芸サークルに所属していた私は、文章を書く仕事に就けなかったとはいえ、小説を書くことは続けていこうと、このホームページを作ったのだ。
 しかし現実は厳しく、仕事に追われて新作の更新は滞りっぱなしだった。せめて書くことだけは続けようと、毎日日記を更新するのが精一杯な状態だった。
 今日も日記のページを開こうとして、ふとトップページのカウンターの数字を見た。
 カウンターは、昨日日記を書いたときからひとつしか回っていなかった。
 私はホームページを閉じ、パソコンを終了した。開設以来初めてだったが、日記をサボることにした。誰も読まない文章など書いて何になるというのだろう。
 開設当初は、同じような自作小説サイトをまわり、掲示板に感想などを書き込み、それを読んだ人が私のホームページに来てくれたりしていた。
 しかし、仕事の忙しい今はサイトまわりもできず、更新もされないホームページは、次第に忘れ去られた存在になっているらしかった。
 暗くなったパソコンの画面を見つめているうちに、私の心の中に怒りがふつふつと込み上げてきた。
 彼に捨てられてしまった。仕事が忙しくて、彼に愛想をつかされたのだ。
 小説も書けない。仕事が忙しくて、構想を練る間もないからだ。
 仕事が忙しいのはなぜか? 課長が他の人の仕事まで私に押し付けるからだ。
 私の怒りは、彼でも彼の新恋人でもお嬢様でもなく、課長に向かった。仮にも課長として人の上に立つような人間は、コネなどに左右されず、お嬢様も一行員として平等に扱うべきなのだわ、と常日頃から不満と憤りが溜まっていたからである。
 発作的に私は受話器をとった。
電話番号を押そうとして、あわてて職員名簿を取りにいった。もちろん、課長の自宅の電話番号など暗記しているわけがないのである。
名簿で課長宅の番号を確認し、念のため一八四を押してから、番号をプッシュした。呼び出し音二回で、少し甲高い耳障りな声が聞こえた。
「はい、氏家でございます」
 課長の奥さんに違いない。私は少し息を飲んだ。ここで臆してはいけない。私は女優なのよ、と無理な暗示をかけてみる。そして、ゆっくりと、舌足らずな調子で話し始めた。
「あのぉ、義幸さんはいらっしゃいますか」
「主人はまだ帰っておりませんけど。あなた、どなた?」
「え? あなた、奥さんなんですか」
 私は、わざとここで少し間を空けた。そして、小声で早口に言った。
「別居してるって言ってたのに。離婚も間近だって……」
「なんのこと? もしもし、あなた、誰なの?」
 奥さんの声が、ますます甲高くなる。
「……全部、嘘だったんですね」
 奥さんが何か喚いているのを無視して、私は受話器を置いた。胸がドキドキし、受話器を握っていた指の先までが脈打つようだ。
たかがイタズラ電話などと言うなかれ。イタズラ電話なんて、道から外れないようにひたすら地道に真面目に生きてきた私には、生まれて初めての卑怯な経験なのだ。課長に復讐してやったという爽快感よりも、虚しさのほうが身にしみる。
自分の思うようにならないからって、イタズラ電話なんかで嫌がらせするなんて。これじゃ匿名掲示板に「逝ってよし」とか書いている語彙の少ない中学生(とは限らないが)と変わらない。
仮にも作家志望者である自分が、こんなことでしか自分の鬱屈を表現できないなんて。世の無常、不条理を作品に昇華させることこそが真の作家の仕事じゃないの。こんな卑怯で小心者でオリジナリティのない私なんて、作家失格だわ。
 私は、戸棚から名前に惹かれて買ったフォアローゼスを取り出した。いつもは二日酔いを恐れて薄い水割りにして飲むのだが、今日はストレートで胃に流し込んだ。
 彼のことも、ホームページのことも、イタズラ電話のことも、なにもかも忘れて眠りたかった。
 化粧を落としていないことと、歯を磨いていないことと、パジャマに着替えていないことが、ちらりと気になったが、強いアルコールが望みどおり私を眠りの中に引きずり込んでくれた。



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