2007/03/07(水)22:22
少し長いですが・・・「しかしみ言葉ですから」ルカ5:1-11
《礼拝説教》 「しかしお言葉ですから」 2007・03・04
ルカ5:1-11 深谷 牧師
5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
(日本聖書協会 新共同訳)
【はじめに】
わたしたちの生活の中では時に、このペトロたちのように「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言うような状況があります。一生懸命がんばったのに、その努力が泡に帰した、と言うような体験です。それは小さな挫折のようなことかもしれません。でも、小さな石ころやちょっとした出っ張りで転んでけがをしてしまう時だってあるのです。労苦が報われない、自分の思っていたような成果が得られない。網を打っても、打っても、その網には、流木と海草のくずとかしか入っていない。どっと疲れの出た漁師たちは、肩を落として港に入ってくる。今日の話はそのような状況から始まってゆきます。そして、主イエスが、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と言いました。そして、その後で、彼はいいました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。しかし、お言葉ですから・・・・。今日はこの言葉を中心にみ言葉を頂きたいと思います。
【今日の聖書箇所の概説】
このとき主イエスは、ゲネサレト湖畔に立っておられました。すると神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来たのでした。2節には、イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になったこと、そのときに、漁師たちは、舟から上がって網を洗っていたことが記されています。主イエスは、そのうちの一そうであるシモンにお願いして持ち舟を借りました。そんなに大きな舟ではなかったのでしょう。その舟に乗り、岸から少しこぎ出すように頼み、そして、海をバックに腰を下ろして、舟から群衆に教え始められたのでした。10人や20人に語るのならいいのですが、数百人に語る場合、設定も大切になります。海辺で話すのは波や山に声が反射してよく聞こえるのだそうです。主イエスの声はきっと良く通ったのでしょう。そしてペトロは主イエス様のそば近くで、それこそ、つばのかかるような近くからじっと主イエスの説教を聞くことになりました。
【メッセージのポイント】
1)4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 (4節)
⇒ 沖へ漕ぎ出だせ!
今日の聖書の物語は、「沖へ漕ぎ出して」と言う印象深い言葉が語られます。神の恵みの中へとこぎ出だす生涯を暗示しているような言葉です。
聖歌597に「沖へ出でよ」と言う讃美があります。味わいのある歌詞なのでここに記してみます。
父なる神の恵みは 限りなき海ぞ
友綱を解きて沖へ 漕ぎ出でてみよや
* 折り返し
沖へ出でよ 岸を離れ
主の恵みのただ中に いざ漕ぎ出でよ
世の人は岸に立ちて 沖おば見るのみ
主の恵みの深さなど あえて知らんとせず
あるものはわずか漕ぎて 遠く乗り出さず
帰る波に飲まれたり 船ともろともに
乗り出だせ沖をさして 恵みの潮の
瀬に流されてすべてを 主に任すまでは
皆さん、信仰生涯は、ちょうど大海原に舟を出すようなものです。沖へと進み行きましょう。
2)5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(5節)
⇒ しかし、お言葉ですから!
この、「しかし、お言葉ですから」、と言うこの言葉は、この箇所の中心的なメッセージなのではないでしょうか?
シモンは主イエスに言いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。これは本当につらい徹夜の作業があったことを示しています。何も取れなかったのです。まさに、昆布の切れ端、流木、海草のくず・・・そのようなものしか取れなかったのです。徹夜でしたのですから、もう一度、沖まで漕ぎ出すのは大変だったに相違ないのです。それにペトロは漁師としてのプロの感覚からいえば、さかなは夜から明け方にかけて取れるもので、もう、太陽が高く上がってからなどは、網を下ろすなどと言うことはあまりなかったようです。
それでも、「しかし、お言葉ですから」と、ペトロは主イエスの「み言葉に従って」行動を始めたのでした。きっと主イエスのお話がよほど感動的で心動かすところがあったのでしょう。
皆様はいかがでしょうか?「今までなかなかうまく行かなかったですよ。何度かやり直してみたけど、だめでした・・」。いろんな人生の体験があることでしょう。
でもここに、ひとつの手がかりがあります。「しかし、お言葉ですから」。これは現実がどのようであっても、全能なる神のみ言葉を大切にして歩む人生を意味しています。み言葉に従う道です。
3)6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたから。(6,9節)
⇒ わたしから離れてください。わたしは罪深い者です!
ここには主イエスのみ言葉に従って漁をした結果が、興味深く記されています。おびただしい魚がかかり、網が破れそうになって、もういっそうの舟にも応援に来てもらって、二そうの舟で一杯となったので、舟は沈みそうになったと言うのです。
ペトロは全く驚いてしまいました。彼、シモン・ペトロは、聖なるおそれにとらわれて、イエスの足もとにひれ伏しました。そして、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのでした。これは実に生々しい描写であろうと思います。
人は聖なるお方に出会うときに、自分の愚かさや本当の意味での罪の悔い改めが始まります。
4)10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 (10節)
⇒ 恐れるな!あなたは人間を取る漁師となる。
最後に主イエスはペトロに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。
事実、ペトロは、人々をすなどり、天国へと導く、天国の漁師となりました。神はペトロを選んで、聖なる伝道の使命を与えて、新しい歩みを与えられたのでした。
3月2日は、東京聖書学校の卒業式でした。ある神学生が挨拶で言いました。「わたしは今、東京聖書学校が、日本一の神学校だと思ってここを卒業し、伝道の第一線に立ちます」。ある卒業生は「わたしは神学校での4年間の学びで入学したときとは別の、深い恐れとおのれの愚かさを感じております」。
【 祈り 】 全能の主よ。この新しく迎えたこの1週間、あなたのみ前に、整えられた出発を感謝します。「沖へ漕ぎ出し漁をしてみなさい」、あなたのみ言葉を明確に信じ、いつでも「しかし主よ、お言葉ですから」とあなたのみ言葉を信じて大胆に進むことができますように。主イエスの聖名によって祈ります。アーメン!
写真は、赤羽の近く荒川放水路です。