生きることは音楽だ
昨日家族でドラムサークルに行ってきました。ボンゴやコンガやマラカス、各種パーカッションがたくさんあって、参加者が輪になって(=サークル)、周りの人たちと協調しながら言葉を使わずに音のコミュニケーションで一つの音楽を作り上げるワークショップ、というコンセプトのよう。そこには大人も子どもも障害の有無もフリーです。長男(8)は、まだ周りの音に耳を澄ますというよりは、自分の音の世界を楽しむという段階のよう。やってみたい楽器の前に速攻で座り、様子を伺いながら少しずつ安心しながらいつもの自分らしい表現をし始めていました。「楽器の音が雨とか、雷とか、目覚まし時計とかに聞こえるからみんなで例えば雨の音をやってみたい」という発案をしたことには私も驚いた。集中力はないが、発想にはキレのあるやつだ。そして言語の世界で翻弄されているやつなのだ。次男(4)は、なかなか独特の雰囲気の中でいつもの自分を出さない。おもしろそうなものを提示されても、場になじむまでは慎重だ。参加メンバーにも楽器にもうちとけない。三種類のパーカッションを床に並べて叩く、というスタイルに興味をもち、しだいに発散型の演奏を始めた。型にこだわる成長段階でもあろうし、気に入った型をみつけたことで、自分の落ち着ける場所ができたのだろう。まだまだ親が近くにいるという確認が必要な段階だ。はっちゃけ始めても、親の顔をしょっちゅう確認していた。そこに信頼関係がなければ他人の音は聞けないよな。三男(1)は、新しい見たことのないものに興味しんしんなので、たいくつせずに楽器を触ったり振ったり叩いたりしていた。次男に使っていた楽器を奪われない限りはご機嫌よかったので、問題なしだ。音の出し方は、音の主そのものだ。次男も三男も、周りが静寂を楽しむ音を楽しもうとも、自分や自分の身近な人との音世界で遊んでいる。まだ集団に強制させるべき時でもない。周りの人たちと協調しながら一つの音楽を作り上げる、というならば、輪の少し外側にいる、この子達が奏でる遊びの音も含めて、音楽である、という聴き方が必要だ。オーケストラのチューニングの音が始まったときにすでに音楽が始まっている、という聴き方だ。できごとをあるがままに受容する聴き方ができると、ふだんの子育てのどたばたも音楽やダンスに聴こえてくる。強制しようとした途端に、音楽はただの喧騒に消えてしまうのだ。