「人生の一日」  かまたあきよし

2012/02/22(水)21:07

平清盛 第七回  

テレビ番組(159)

あるコラムニストがこの「平清盛」のことを「画面の中に右下がりの折れ線グラフが見える大河ドラマ」と評していた。 んーなかなか上手いことを言うものだと感心した。いやいや、感心している場合ではないのだけれど。 なんだろうな、この見るたびにこちらの期待を少しづつ裏切るような微妙な展開というもの。 さらに今回はタイトルも少し腰砕け気味だ。源氏物語の主人公光源氏にひっかけた「光らない君」。 後に正室となる明子(加藤あい)と時子(深田恭子)を同時に登場させ、後妻となる時子の清盛の印象が「光らない君」というわけだ。いや、こうなるとドラマとして、つまりフィクション(嘘)だからいいとはいえ、このようなふたりの姫君の登場のさせ方では、あとあと「誰か」を悪役にしないと納まりがつかなくなりそうなのだけれどそれでいいのだろうか。不安だな。 なんかこのドラマの作り、視聴者の興味を引くために用意したいくつもの仕掛けが、悪いほうに悪いほうにと転がってばかりいるような気がしてならないんだが。 何故こうなったのだろう。思うに、やはりドラマの最初のほうで、宮中のドロドロとした人間関係をこれでもかとばかり露悪的に描いてしまったのがそもそものつまづきだったのでは。 少し前のことだ。病院の待合室にいたら、テレビ(当然NHK1が流れている)で平清盛の番宣が流れていて、それがどういうわけかその宮中のドロドロエロエロなところばかりをピックアップしたようなものになっていた。 自分の後ろ(厳密に言うと背中合わせのベンチ)にいたお年寄りたちがそれを指して「なんだがなぁ、こんどの大河はこういうのばっかり(つまり軽いエロ)で家族でみらんないんだもんなや」とぼやいていた。 つい先日(土曜の午後)なのだが、自分は某ディスカウント店でこんな光景を見てしまった。テレビ売り場でいくつものテレビモニターでは平清盛の再放送が流れていたのだが、そういう、つまり三上博史の鳥羽上皇と璋子(金麦れい)とか得子(松雪)が出てるようなシーンになった途端、子供連れの母親が困ったような顔になり、子供の手を引っ張ってテレビ売り場を足早に立ち去ってしまったのだ。 いや、この「平清盛」を作っている人たちがどんな思いでこんな宮中ドロドロをドラマのもう一方の柱として重要視しているのかはまだよくわからない。 わからないが、結果こういう現象(おそらく日本全国中でだ)を生んでいるということだけは刮目して、少しでも見るものを減らことだけは避けるような施策をとるべきではないのか。 また、自分の友人なんかはこうも分析している。 「この平清盛、オープニングタイトル(CG)だけはここ数年の大河でもトップクラスの出来だと思うんです。あまりによく出来たオープニングを見せられてから本編に入ると…なんかしょぼいですよね、比較として」 自分もそれはあるのかなと思っている。もう少し具体的に言うと、今回のオープニングのタイトルも、順番からすると先に音楽が出来上がっていて、それにあとから音楽にあわせた映像を編集しているのだろうと思う。その映像素材の「つなぎ」がとても工夫されているのだ。 で上で触れた病院の待合室にいたお年寄りであるが、とても含蓄のあることも言っていた。 「いくらドラマだとはいえ、皇室のことを悪くかいて、日本人が喜ぶとでも思ってんだべか? そんなのは韓国のドラマに任せてればいいのっしゃ」 その言葉のオモテの意味と、もうひとつ裏にある意味を感じとった自分はただ「すげぇ そのものずばりの正論だなぁ」としみじみとしてしまった。 まあ、この平清盛、史実まるっきし無視のなんでもありの韓流史劇ドラマと比べたらいけないんだけれどね。韓流ドラマと大河はそもそもの視聴者の層というか質がまったく違うからね。

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