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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2020.03.30
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カテゴリ:夏目漱石
 漱石が小説に登場させた足袋には、『野分』の中野くんの家の女中がはいている「白足袋」、同じく『野分』で往来を通る男の「黒足袋」、『虞美人草』では小野のはく「紺足袋」と藤尾のはく「白足袋」のコントラストが印象的です。『三四郎』でも広田先生が履いている「紺足袋」、『門』でお米のはくのは「白足袋」です。
 
「大学を御卒業になった方の……」とまでいったが、ことによると、おやじも大学を卒業しているも知れんと心づいたから「あの文学をおやりになる」と訂正した。下女は何ともいわずに御辞儀をして立って行く。白足袋の裏だけが目立ってよごれて見える。(野分3)
 
 毘沙門の提灯は年内に張りかえぬつもりか、色が褪めて暗いなかで揺れている。門前の屋台で職人が手拭を半襷にとって、しきりに寿司を握っている。露店の三馬(サンマ)は光るほどに色が寒い。黒足袋を往来へ並べて、頬被に懐手をしたのがある。あれでも足袋は売れるかしらん。今川焼は一銭に三つで婆さんの自製にかかる。六銭五厘の万年筆は安過ぎると思う。(野分12)
 
 拭き込んだ細かい柾目の板が、雲斎底の影を写すほどに、軽く足音を受けた時に、藤尾の背中に背負った黒い髪はさらりと動いた。途端に椽に落ちた紺足袋が女の眼に這入る。足袋の主は見なくても知れている。
 紺足袋は静かに歩いて来た。
「藤尾」
 声は後でする。雨戸の溝をすっくと仕切った栂の柱を背に、欽吾は留ったらしい。藤尾は黙っている。(虞美人草 12)
 

 
「私から――ええ私から――私から誰かに上げます」と寄木の机に凭せた肘を跳ねて、すっくり立ち上がる。紺と、濃い黄と、木賊と海老茶の棒縞が、棒のごとく揃って立ち上がる。裾だけが四色の波のうねりを打って白足袋の鞐(こはぜ)を隠す。
「そうか」
と兄は雲斎底の踵を見せて、向うへ行ってしまった。(虞美人草 12)
 
 髭を濃くはやしている。面長のやせぎすの、どことなく神主じみた男であった。ただ鼻筋がまっすぐに通っているところだけが西洋らしい。学校教育を受けつつある三四郎は、こんな男を見るときっと教師にしてしまう。男は白地の絣の下に、鄭重に白い襦袢を重ねて、紺足袋をはいていた。この服装からおして、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控えている自分からみると、なんだかくだらなく感ぜられる。男はもう四十だろう。これよりさきもう発展しそうにもない。(三四郎 1)
 
 その日は二人して町へ買物に出ようというので、御米は不断着を脱ぎ更えて、暑いところをわざわざ新らしい白足袋まで穿いたものと知れた。宗助はせっかくの出がけを喰い留めて、邪魔でもしたように気の毒な思をした。(門 14)
 
 では、漱石が何をはいていたかというと「紺足袋」でした。次男の伸六の『父・漱石とその周辺』「着物と紺足袋」には次のように書いています。
 
 この父も、足袋だけは、当時尾張町の近くにあった有名な足袋屋の紺足袋ばかりを穿いていたというから、こんな所に、山の手育ちとはいえ、多少とも意気な江戸ッ子好みの片鱗が窺えないこともない。というのも、昔から、真の洒落者は紺足袋を穿くといわれたもので、小宮豊隆さんなども、以前は、ずっと紺足袋を常用していたのだけれど、それがいつの間にか白足袋に変ってしまった。
 で、眼ざとく、その足もとの変化に気のついた母が、早速、『あら、どうしたの、あんた急に白足袋なんぞ穿いてさ』とたずねたことがあるのだが、その時小宮さんが、『いや、紺足袋ばかり穿いていると、どうも不経済で仕様がないんで、已むを得ず僕も白足袋にかえたんで』といささか残念そうな面持で答えていたのを覚えている。つまり、紺足袋なら、一度洗えば色がさめて、もう他所行にはならないけれども、そこへ行くと、何度でも洗いのきく白足袋は、ずっと経済的だという訳である。
 ところで、私は別に、他人が白足袋を穿いているのを見ても、一向抵抗を感じないが、自分が穿けといわれたら、金輪際あんな物は穿くものかという意識が、根強く心の何処かに蟠っているので、恐らくこうした気持は、父にも共通していたのではないかという気がする。もっとも、紺足袋を穿く者が酒落者だといったところで、これは無論、ぷんと藍の呑の匂うような真新しい足袋を常に穿いている連中の話であって、その観点に立って見ると、私の父など、先ず真先に、酒落者の範疇から脱落しそうな形勢である。というのも、家にいる時は勿論、いつもぶらりと着の身着のままで外出する父が、出がけに真新しい足袋を穿き替えている姿など、私は一度も見たことがないからである。(夏目伸六 父・漱石とその周辺 着物と紺足袋)
 
 尾張町は現在の銀座5丁目あたりにありましたから、近くにあった足袋屋というのは「も足袋」でしょうか。有名な足袋屋といえば「中川屋」は南伝馬町、「海老屋」が銀座2丁目にありました。
 伸六は、洒落者が「紺足袋」を穿くと書いていますが、明治26年に書かれた大川新吉著『東京百事流行案内』には「紺足袋はこれまでは職人か田舎漢でなければ穿かぬことのように決まっておりしが、当今は誰彼の差別なく穿くこととなりたり。そは経済的な原因せしならんが、鼠色の白足袋は感心せねば、紺足袋の方至極よろし。しかし糸の染め悪くして畳の面を真黒にするなどは注意したきことなり」、平出鏗二郎の『東京風俗志』には「足袋は一般木綿足袋を用うれども、刺底少うして運齋織をもってこれに充つ。その職業によりて紺・白いずれかを選べども、概して下流は紺足袋を用うるもの多く、ことに烈風砂塵を捲くこと多き土地とて、紺足袋ことに徳用向きとして用いらるるなり。紐足袋に至りては全然その跡を絶ちて、皆コハゼがけとす。一年絣地をもって製りしもの、まま行われしが、既にして廃れぬ。絹足袋も穿心持のよきごて上流に行わるれど、贅沢品なれば多からず。生粋の江戸ッ児にはコハゼを純金をもって作るあり、なべて江戸ッ児とか通人とかいわるる輩は、表木綿の裏甲斐絹流義にて、人の心付きもせぬ処に骨を入れて通がるの癖あるこそおかしけれ」とあり、紺足袋は安価で、職人のイメージが強かったものでした。






最終更新日  2020.03.30 19:00:05
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