漱石の青春03/十人会で江ノ島へ
駿河台の成立学舎出身者(橋本左五郎、佐藤友熊、太田達人、小城斎)が中心となって結成した「十日会」で、漱石らは江ノ島へ旅行を決行しました。この旅行は、会費十銭のため、汽車を使うこともできず、もちろん徒歩。宿も野宿で、しかも江ノ島に行ったことがあるのは中村是公だけというおそまつさで、行き当たりばったりの青春の旅そのものでした。「十日会」のメンバーが下宿していたのは、神田猿楽町の「末富屋」という下宿屋で、江ノ島までは16里(約60km)の道のりでした。三食分の握り飯を懐に入れ、暗いうちから江ノ島めがけて歩き出しました。品川宿に着いた頃には陽が登り始めました。昼飯をとったのは神奈川の土手で、夜の8時に藤沢へ到着しました。 何とか江ノ島に到着した一行でしたが、江ノ島のすぐ目の前に到着しましたが、どこからどう渡ったらいいかわかりません。「十人会」の一行は、持参した毛布にくるまり、海岸の窪地で野宿をせざるを得ませんでした。 この頃、江ノ島は海岸と陸続きではではありませんでした。干潮になれば渡れるのですが、満潮時には渡し舟を使うか、人足に頼んで背に乗って渡るかしか、江ノ島へ行く手段はありませんでした。明治24年には桟橋が架けられましたが、全てが渡れるわけではなく、やはり人足が一部分の距離を背負って渡していたのです。1年中自由に島渡りができるようになったのは明治30年のこと。州鼻口から島口まで、380間(1間は1.82m)の橋ができましたが、しっかり片道一人一銭五厘、往復三銭の渡橋賃が徴収されました。 朝を迎えた漱石たちは、翌朝島へ渡りました。十銭の会費では全員を渡すことができないため、誰かひとりが背負ってもらい、残りの人間はその後について海の中を歩いていくことに決めました。漱石は、「俺がおぶさる」と申し出て、自分は少しばかり楽をしました。江ノ島を巡ろうにも詳しいことは是公も覚えていません。一行は、いつしか旅館の庭に迷い込み、そこで仲居さんに道を聞いて、ようやく弁財天の祠にたどり着きました。帰りは鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮にまで足を伸ばしました。元気がまだ残っている者は、石段を昇って、へばっている者に声をかけます。実朝や頼朝の宝物が見えるから、早く来いというと、宝物よりも、そこの甘酒屋で甘酒を飲んで休んでるから、上から銭を放れと叫ぶのでした。 帰路は、歩けなくなったふたりは、横浜から汽車に乗り下宿へと帰還。他の者は、神田猿楽町まで駆け足で帰りました。 「十人会」の他の連中は、多くは神田猿楽町の末富屋という下宿屋にいました。佐藤友熊なぞもその一人ですね。ある時この「十人会」で江の島の一泊旅行を企てたことがありました。会費は一人前十銭です。その時分は汽車はまだ横浜までしかない。汽車があってもなくっても、十銭の会費だから汽車になんか乗れない。片道十六里の道程(みちのり)を歩いて行って、歩いて帰る予定で、勿論日帰りにはできないから、着いた晩は弁天様のお宮の拝殿ででも泊ろうという趣向でした。丁度その前晩は根津の遊廓に火事があって、大観音のあたりも、騒いでいると一時になった。それから寝ずに飯を焚いて、三度分の握飯を拵(こしら)えて腰に附けたまま私はすぐに出掛けました。末富屋に同勢が打揃って、いざとい,8,うので出発しましたが、夜明け方品川の宿に着く時分になると、穿き馴れぬ草鮭に、私はもう足が痛くなりました。その頃東京では、あれが粋なつもりでしょうが、実に細い瓢箪形(なり)の草鮭を売っていたものです。あれを穿いてゐいたからたまらない。それでも辛抱をしいしい神奈川まで着いて、一同土手に腰掛けたまま先ず午飯のつもりで持って来た握飯の包みを開いたが、私はこれから未だ七八里もあろうという藤沢まで行って、それから江の島へ渡って、更に明くる日十六里の道を歩いて帰ることは到底できそうもない。いっそ自分はここから一人別れて帰ると云い出した。すると衆皆(みんな)が、実は吾々も黙ってはいるが足は痛いのだ。ここまで来て、一人先へ帰るという法はない。是非我慢して一緒に行けというものだから、私もその気になってまた歩き出した。日もとっぷり暮れて、何でも夜の八時頃藤沢へ着いたが、更にまた労れた足を引摺るようにして、片瀬の海岸まで辿り着いた。見ると、海水が漫々として、江の島の影は見えるが、思ったよりも海は広く、何処から渡っていいかさっぱり分らない。今の様に桟橋なんてえものはないのだ。実をいうと、それ迄に江の島へ来た覚えのあるものは柴野(中村是公)一人で、是公が案内役の格だから、どうして渡るんだと聞くと是公も、さあ困ったな、この前来た時はこんな筈じゃなかったがと云うばかりで、一向埒が明かない。それに夜も更けて、労れてはゐるし、仕方がないから、一同砂地の窪みで、めいめい持って来た毛布に包まったまま野宿をすることにした。処が、夜半にぽつりぽつり小雨が降り出して、海岸だから風は吹く。夜が白んで、物の文色(あいろ)が見えるやうになった頃、お互いの顔を見ると、どれもこれも吹き附けられた砂がへばり着いて、真黒になっていた。おまけに一行中の真水英夫(工学士)の脚絆が見えないと云って騒ぎ出す。夜半に犬が吠えていたようだから、犬でも啣(くわ)えて行ったんじゃないかという者があって、捜してみると、やっぱり砂浜の藻屑の中へ啣へて行ってあった。ここらは『満韓ところどころ』の中に書いてある通りです。私なぞも江の島旅行を想い出すたびに、きっと真水英夫の脚絆が目に泛んでくるから不思議なものですよ。 そこで砂の上に蹲(うずくま)ったまま朝飯に竹の皮包みの握飯を喰った覚えがあるから、弁当は確に三度分持って行ったんです。その間に夜が明け放れて、江の島の家並みがはっきり見える頃になると、向う岸でも五六人の男が出てきて、頻りにこっちを見ていたが、江の島見物の客人だと見当をつけて、ぞろぞろこっち側へ渡ってきた。それが見物の旅人を負って渡す人足だったんですね。しかし無代(ただ)じゃ渡してくれない。こっちは昨日からの強行軍で十銭の会費は残り少なになってゐるし、これは全く予算外の支出だから、すっかり弱ってしまった。で、会費以外に持っている者は出せ出せと云って集めましたが、未だ何に要るか分らないし、ここでめいめい負(おぶ)さって渡るわけにはいかない。仕方がないから、誰か一人だけ負って渡して貰って、自余(あと)の連中はその後にくっ附いて海の中を渡渉(かちわた)ることに相談を極めました。そこで誰が負さるかという段になると、夏目が真先に「おれが負さる」と云い出した。そこらは素早い男でしたよ。こうして兎に角江の島へ渡りましたが、さて道をどっちへ取っていいか、柴野もうろ覚えでよく分らない。ままよと、坂の下から東の方へ入ったら、宿屋の庭へ出てしまった。丁度女中が雨戸を繰つている処で、吾々の顔を見ると吃驚(びっくり)して、「こんなに早く、あなた方は一体どこでお泊りになったのです?前の何屋さんですか」と聞くから、まさか砂の上とも云われず、「ああ、そこで泊ったよ」と好い加減に答えて置きました。それからその女中に道を聞いて、石段を登って弁財天の洞にも参詣した上、兎に角江の島を一巡して、岩屋にも詣でました。 で、江の島を後にして、七里ケ浜の砂浜伝ひにーええ、その時分は衆皆(みんな)足が痛くてたまらぬものだから、本当に波打際の砂の濡れた所ばかり選って歩くようにして、ようよう鎌倉へ辿り着きました。午飯は何処で喰ったか覚えていませんが、鶴ケ岡八幡宮の石段の下まで来た時には、私なぞもう腹は減るし、足は痛いし、どうにもその石段を登るだけの勇気がなかった。しかし元気のいい連中はそれを駈け上って、石段の上から、「おい、実朝とか頼朝とかの宝物が見せて貰えるんだ、早く上って来い!」と喚ぶんですがね。下の連中はもうそんな宝物なぞどうでもええ。そんな物見るだけの金が剰っていたら、石段の下の甘酒屋で甘酒でも飲むから銭を放ってくれと云いましてね、上から放って貰った銭で甘酒を飲んだ覚えがありますよ。その時分あそこに甘酒屋が屋台店を張っていたものです。で、他の連中は宝物を見て降りて来ましたが、今日中に東京まで帰るには余程急がなければならない。足が痛んで歩けない者だけ横浜から汽車に乗せることにして、それだけ後に残して置いて、他の連中はこれから駈足で戻ろうということになりました。前にも云う通り、私は昨日神奈川から帰ろうと云い出した位だから、私ともう一人古城と申しまして、工科を出て、日露戦争の時には船に乗り込んでいて、露西亜へ捕虜になっていった経験のある男ですが、この二人だけが汽車に乗って帰る権利を許されました。夏目君も最初は駈足で帰る組に入りましたが、遣り切れなくなって、途中から汽車に乗り込んだものとみえ、私達が猿楽町の末富屋へ戻って休んでいると、夜晩くなって一人で先に帰って参りました。他の連中はずっと後れて帰ったようなわけです。この江の島旅行の話は、夏目君の筆で委しく書いて置いてくれると、よほど面白いものができたように思いますがね。(太田達人 予備門時代の漱石) 明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着日帰りの遠足をやった事がある。赤毛布(あかげっと)を背負って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように毛布(けっと)に包まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が覚めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。その上犬が来て、真水英夫の脚絆を啣(くわ)えて行った。夜が白んで物の色が仄(ほのか)に明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も奇麗に砂だらけになっている。眼を擦ると砂が出る。耳を掘くると砂が出る。頭を掻いても砂が出る。七人はそれで江の島へ渡った。その時夜明けの風が島を繞(めぐ)って、山にはびこる樹がさあと靡(なび)いた。すると余の傍に立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戦々兢々としているじゃないかといった。 草木の風に靡く様を戦々兢々と真面目に形容したのは是公が嚆矢(はじめ)なので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた。当人だけは、いまだに戦々兢々で差支えないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。通じた証拠には胴上にしたじゃないかくらい、酔うと云いかねない男である。(満韓ところどころ 12)