子規の死ぬということ
明治35年を迎えると、子規は命が残り少いことに気づいていました。『病牀六尺』には、生きることの意味について書かれたものが数多くあります。例えば「余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは如何なる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きておることであった」「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白味もない」とも書いています。 ○余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは如何なる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということは如何なる場合にも平気で生きておることであつた。○因みに問う。狗子(くし)に仏性(ぶっしょう)ありや。曰く、苦。 また問う。祖師西来の意はいかん。曰、苦。 また問う。………………………。曰、苦。(病牀六尺 明治35年6月2日) ○或人からあきらめるということについて質問が来た。死生の問題などはあきらめてしまへばそれでよいというたことと、またかつて兆民居士を評して、あきらめることを知っておるが、あきらめるより以上のことを知らぬといったことと撞着しておるようだが、どういうものかという質問である。それは比喩を以て説明するならば、ここに一人の子供がある。その子供に、養いのために親が灸を据すえてやるという。その場合に当って子供は灸を据えるのはいやじゃというので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。もしまたその子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思うて、親の命ずるままにおとなしく灸を据えてもらう。これは已にあきらめたのである。しかしながら、その子供が灸の痛さに堪えかねて灸を据える間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それは僅かにあきらめたのみであつて、あきらめるより以上のことは出来んのである。もしまたその子供が親の命ずるままにおとなしく灸を据えさせるばかりでなく、灸を据える間も何か書物でも見るとか自分でいたずら書きでもしておるとか、さういうことをやっておって、灸の方を少しも苦にしないというのは、あきらめるより以上のことをやっているのである。兆民居士が『一年有半』を著わした所などは死生の問題についてはあきらめがついておったように見えるが、あきらめがついた上で夫かの天命を楽しんでというような楽しむという域には至らなかったかと思う。居士が病気になつて後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をしておる処などはややわかりかけたようであるが、まだ十分にわからぬ処がある。居士をして二、三年も病気の境涯にあらしめたならば、今少しは楽しみの境涯にはいることが出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白味もない。(病牀六尺 明治35年7月26日) 後者の文章は、明治34(1901)年9月2日に出版された中江兆民の『一年有半』について感想を書いたものです。子規は、驚異的なベストセラーとなった『一年有半』に対して、三度、感想を述べています。 一つは『仰臥漫録』で、明治34年10月15日、17日、18日、25日に書かれました。10月15日の時点で、子規はまだ読んでいないにもかかわらず、「(兆民)居士はまだ美ということ少しも分らず、それだけ我等に劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば楽み出来可申候。杏を買うて来て細君と共に食うは楽みに相違なけれども、どこかに一点の理がひそみ居候」とあり、17日に高浜虚子が『一年有半』を届けてくれたことについて書き、18日に読みました。そして、25日には「浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりしため、忽ち際物として流行し六版七版に及ぶ」と否定的です。 兆民居士の『一年有半』という書物世に出候よし噺聞の評にて材料も大方分り申し候。居士は咽喉に穴一ツあき候由われらは腹背中臀ともいわず蜂の巣の如く穴あき申候。一年有半の期限も大概は似より候ことと存候。しかしながら居士はまだ美ということ少しも分らずそれだけわれらに劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば楽み出来可申候。杏を買うて来て細君と共に食うは楽みに相違なけれとも、どこかに一点の理がひそみ居候。焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きにタ風そよぐ処何の理屈か候べき。 昨夜腹兵合あしく今日は朝飯くはず(仰臥漫録 10月15日) 子規は、その年の11月下旬に、新聞『日本』紙上で、『命のあまり』という、『一年有半』批判を20日、23日、30日の三回に批判します。30日の記事は、読者から寄せられた投書に答える形式となっています。兆民は、この連載ののち、12月13日に息を引き取りました。 子規の批判は、売れているにもかかわらず、大した本ではないというものです。 長い間病床に伏せている子規は、死病の先輩でもあるという自負から先輩風を吹かせていますが、実は、これから死んでいこうとする人の心情を真に捉えず、無責任な批評に終始する新聞や読者が我慢できなかったようです。結核で同じく長年の病床生活を続けていた子規にとって、兆民の氏への認識は、平凡すぎるというのです。 この批判の反響が沈静化した頃、子規は『病牀六尺』に「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白味もない」という境地を書きつけたのでした。 近頃、兆民居士が大患に罹って医者から余命一年半という宣告を受けた。そこで『一年有半』という書物を書いて出すと、売れるは売れるは、目たたく間に六七万部を売り尽くした。 誠に近来珍しい大景気なので、しかもこれが万年青(おもと)や兎や自転車の流行と違うて、苟(いやしく)も一部の書物が流行するのであるから、何処までもほめてほめて、なおこの上にもはやらすべきであるが、さて如何程これがはやった処で、瀕死の著者に向うてそれを賀して善いであろうか、悪いであろうか。 まさかに『一年有半』が一命を犠牲にして作ったという程の大作でもなし、また有形の実入りからいうても原稿料二百円という説が ほんとうなら、これも命がけで儲けた程の大猟でもない。 本屋の収入はどれだけであるか、我々には分からぬが兎に角、著者の所謂(いわゆる)利は他人に帰し、損は己(おのれ)に帰することになったのであろう。 これが若手であるなら一度名を売って置けば、後々のためになるという事もあるが、兆民居士の身になって見たら、死に際(ぎわ)に 返(かえ)り咲的の名誉を博するよりも寧(むし)ろ、薬代の足しにでもなる方が都合が善いかも知れない。 苦しい息の下で筆を取って書いた処で、死にがけの駄賃がやっと百か二百、それを診察料に払って仕舞えば差引残りが六文にも足るまい。それでは三途の川の渡し銭も此(この)頃の物価騰貴で高くなったから払えぬと来れば誠にはや気の毒至極なものである。 『一年有半』が売れたというのは題目の奇なのが一因であるが、それを新聞でほめ立てたのが大原因をなしたのである。死にかかって居る病人が書いたというものをいくら悪口ずきの新聞記者でも真逆(まさか)に罵倒するわけにもゆかず、あたかも死んだものが善人も悪人も一切平等に「惜哉」とほめられるような格で、『一年有半』 も物の見事にほめあげられたのである。 この間にあって、もし『一年有半』を罵倒する資格(チト変な資格であるが)があるものを尋ねたら、恐らくは予一人位であろう。 死にかかって居るということは両方同じことで差引零となる。ただ先方が年齢に於いても、智識に於いても先輩であるだけが評しにくい所以であるが、その替り病気の上に於いては予の方がたしかに先輩である。病床に於(おけ)る苦痛やまたはその苦痛の 間に於ける趣味の経験については五年間の月日を費して研究した予に及ぶものは他に無いであろうと信じる。 といって見た所で何も自慢する程の研究でもないが、こんな時にでも意張(いば)らねば、外に意張る時がないから意張って見る位に過ぎぬ。誠に我ながら兆民居士に上越す程の気の毒さである。 さて、『一年有半』を罵倒する程の資格があるならば罵倒してみよと言われたところで何も罵倒する程の書物でもない。さればと言ってもとより真面目になってほめる程のものでもない。評は一言で尽きる。平凡浅薄。仮りにこの本を普通の人が書いたものとしても誉めるに足らぬ。ただそれを口に出すものが無いばかりのことだ。 実行的の人が平凡な議論をするのは誠にたのもしく思われるが、奇行的の人が平凡な議論をするのは嘘つきがたまたま真面目な話をしたようで、何だか人をして半信半疑ならしめるところがある。兆民居士は今迄、奇行的の人と世間に思われていた人である。 『一年有半』のうちに、大阪の義太夫を評したところがいくらもある。これはさすがに兆民居士が他の俗人の仲間より頭をぬき出して居るところであるが、しかし義太夫以上のたのしみを解せんところは、矢張(やはり) 根本に於て俗人たるを免れん。 居士は学問があるだけに、理屈の上から死に対してあきらめをつけることが出来た。今少し生きておられるなら「あきらめ」以上の域に達せられることが出来るであろう。(命のあまり)