子規の旅51_日清戦争従軍への旅05(船中での屈辱)
明治28年4月13日、子規たちを載せた海城丸はようやく大連湾に着きました。しかし、なかな船は上陸しません。 子規たち記者の間で不満が爆発しました。 一つは、同情していた僧侶たちがいつの間にか待遇の良い場所に移っていたことです。これに文句をいうと、なれら乗るまいが上手かったから、待遇が変わったといい、それを「太鼓をたたく」と表現しました。もう一つは、記者は兵士たちと比べても気が弱く、振る舞いに慣れていないために、食事の際に貰い受けが遅れてしまい、再度湯を取りに行くと一つも残っていません。 結局、記者たちの振る舞いの悪さのために、孫を見ることになったのですが、人権意識の高い記者たちは、そのことに大きな不満を抱いていました。しかし、それらを面と向かって避難することはしませんでした。 四月十三日 海城丸静かに波を切って大連湾に入れば和尚島の砲台右に湾口を睥睨し大和尚山その後に聳ゆ。柳樹屯の人家遥かに連りて役所めきたるあり、寺院めきたるあり。少し離れて樹二、三本、家十数軒あるほかはただ低く遠く兀山のつづくほか、何も見る所なし。初めて占領地に来りしより早く弁髪の姿見たしと船の人こぞりて甲板に集まれば、小舟をあやつりて来る乞食のきたなき姿も珍しく、近き頃支那語学びたる人々の何くれとういういしきこと、問い試みほくそえみたるもおかし。 十四日 なお船にあり。なすこともなければ甲板に出でて例の乞食舟を見る。大船の傍に漕ぎ寄せて残飯などを貰い受けんと笊めきたるものを差し出すを、彼らは流行病の媒介物なりとて水上取締の憲兵に追い寄せられ、棒もて頭撃たれたるに驚き、漕ぎ除きて力限りに櫓をあやつりながらふりかえりて笑うめり。(陣中日記) ここに不思議なるは、我らの仲間に交りいたる神官僧侶のいつしかにおらずなりしことなり。ただいかにせしやと思いおるほどに、上等室に行き見れば食卓の後、すなわち船の最後部にあたりて少しまるきが高くなりて円く卓を並べたる処に、かの六人の神官僧侶の起臥するを見たり。よくよく聞けばこれぞ管理部長殿の取はからいとぞ聞えし。 我ら仲間の一人は、ある将校のもとにて新聞記者の取扱上の不平を述べ立てたり、将校いう「それは君がわるいのサ、あれは有名なお太鼓サ、我ら仲間で名をいう者はなくて皆太鼓太鼓と呼ぶくらいじゃ、坊さんなんぞは敲きようがうまいから徳をしたのだ、君らは敲かぬからわるいのだ」といいながらからから笑いぬ。それより我ら仲間にでも太鼓という言葉は流行し始めたり。 出帆後四日目か五日目のことなりけん。食事当番のお鉢は我らに廻りぬ。「今度は君の番です」と兵卒は気の毒そうにいいぬ。今までは兵卒殿のお陰で三度の飯を喰いし代りには、今日は我らが兵卒殿の飯をも取りに行くなり。ただちに曹長の許に行きて「飯の切符を下さい」といえば曹長は仏頂面にて「飯の切符は極りの時間に取りに来ねばいかん」といいつつ、しぶしぶ渡しぬ。大事の切符を貰うて甲板に上り炊事場に行けば、兵卒はあたりに満ち満ちて近よるべくもあらざりけり。この炊事場というは二坪にも足らぬ処にて、両方の入口は二尺ばかりあるべし。手桶、薬缶などを提げたる人だち我も我もと押し掛くることゆえ、我らごとき弱虫は餓鬼道の競争に負けてただ後ごみするのみなれば、いつ飯を得べくとも見えざるにぞ思いかねて、甲板の右舷より大廻りして他の口に行けば、ここも同じことなり。ついに肝玉を据えて立ち尽すこと二十分ばかり、群衆ことごとく散じて後、ようよう炊事場に行き、切符と引換に飯櫃と菜を抱え己の室に行き、これを同班の人に渡せし後、再び炊事場に行きて湯を請えば、薬缶一個も残らずとてことわられぬ。強いて何物か与えよというに、ようよう蔓のなき薬缶に湯を汲みて与えたり。この湯というは居風呂にて沸かすものながら、それだに早や汲み尽せしと覚えて底を払いたり。やがて食事終れば再び飯櫃を抱え、これを炊事場に戻し置くなり。 総じて世の中は、与うる者威張り、与えらるる者下るの定則と見えて、さすがの兵卒殿も船の中にいて船の飯を喰う間は、炊事場の男どもの機嫌を取るゆえにや、飯焚の威張りに威張る面の憎さ、実にも浮世は現金なり。 我らの仲間は頭を集むるたびに不平を並べぬ。不平はいつも曹長の取扱に始まりて、終いに食事の上に及びぬ。部屋は上等室なければ仕方なし。食事ばかりは神官らとともに上等室にて喰わせても善さそうなものだといえば、皆さなりと答えぬ。局外の人これを聞かば、いかにも口いやしき連中なりとぞ思わん。 されども万事不自由なる従軍には、何よりかよりただ食事のみぞ唯一の楽みなる。「君、管理部長の処へ行け、飯だけ上等室で喰うように談判しろ」「イヤ君を代表者に選ぶよ」「オラいやだ君行け」ことごとく譲り合いぬ。誰一人行くものなし。いかに取扱が不平なりとて、まさかに飯のことをかれこれと口ぎたなくいい得べきにもあらねば、それももっともなり。 茶碗と箸とは飯粒のかたまりっきて胸悪くなりし頃、船は大連湾に着きぬ。三尺の天井に背ぐくまりたる我らは、ただ上陸せんことをのみ望みたれども、たやすくは許されず。一日二日経て後、ようやく金州行を許されたれども、それも新聞記者一群を半分ずつ一日代りとし、いかにも恩を着せられしごとく命ぜられぬ。 ちなみにいう。我らとほとんど同時に宇品を出発せし第四師団付の新聞記者も、しきりにその冷遇を憤りおれり。されども飯櫃を抱えて船の飯焚に叱られるほどの待遇を受けしことはなかりきと。(従軍紀事 海城丸船中)