子規の周りの人物秘話23:河東碧梧桐09
子規がまだ命を永らえていた頃から、碧梧桐と虚子の俳句に対する考え方は異なっていました。碧梧桐は子規の革新的な面を受け継ぎ、虚子は俳句の伝統的な側面を持ちました。 子規が明治29年「日本人」に掲載した文学時評「文学」には、すでに「碧梧桐は冷かなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し。碧梧桐の人間を見るは猶無心の草木を見るがごとく、虚子の草木を見るはなお有情の人間を見るが如し」と書かれており、子規はふたりの特徴を挙げて、その違いを見抜いています。 子規の死後、その対立が表面化します。碧梧桐の「温泉百句」を虚子が批判したことから、「温泉百句論争」が起ります。虚子は、碧梧桐の新傾向俳句運動の過激な点である技巧に走りすぎることと、珍奇な句になりがちなことを明治36年10月の「ホトトギス」「現今の俳句界」でそのことを指摘したのです。 温泉の宿に馬の子飼へり蠅の声 碧梧桐 碧梧桐は最も材料の新しいのを好む。……その結果「温泉の宿に馬の子飼へり合歓の花」「温泉の宿や厩もありて蠅多し」というがごとき単純なのろい句では満足しないのである。 実景そのままを何の飾り気もなく叙したつもりで、馬の子には絵の声が調和するとかせぬとかいうことは考えるいとまもなかったのである。 碧梧桐は、子規が提唱した「写実主義」をさらに進めようとしたもので、そのためには技巧や新しい表現も積極的に取り入れるべきだと主張しました。しかし、虚子は情緒的で俳句の伝統を守るべきだと考えていたのです。碧梧桐は11月号の「現今の俳句界を読む」で反論、すると虚子は翌月の12月に「再び現今の俳句界について」を書きました。 俳句界では、新しい時代を目指す碧梧桐の方に人気が及び、虚子の「ホトトギス」は低迷を続けます。そして、碧梧桐は、新傾向時代を実現するため、 明治39年より数年に渡って全国旅行に出ることになります。これには東本願寺法主の大谷光演の資金援助により実現したもので、この旅の紀行は『三千里』として本になりました。 一方、虚子は明治41年8月31日、「国民新聞」に連載している小説『俳諧師』に全力投球するため、俳句を休止すると宣言します。このことで、「ホトトギス」はだんだんと文芸誌に足を置くようになりました。 虚子は、俳句に文学的な空想感を盛り込むことを好みました。そこが碧梧桐の写実一辺倒の姿勢とは異なっていました。また、変化し続ける碧梧桐と作風の安定を求める虚子の違いは「ホトトギス」という守るべき本のあるなしに起因しているのかもしれません。そして、虚子は「花鳥諷詠」の姿勢を貫きました。