子規と食べ物の句10/柿08
我好の柿をくはれぬ病哉(明治33) 柿くふも今年ばかりと思ひけり(明治34) 明治33年11月10日から16日の記録『病牀読書日記』には、この季節の果物・柿の記述が並んでいます。13日には蜂屋柿2個、14日はきざ柿3個と蜂屋1個15日には樽柿3個、16日には、樽柿1個、蜂屋柿1個を食べています。 明治32年、柿を食べすぎた子規は腹をこわし、医者から柿を食うことを禁じられてしまいました。子規はそのことを、「柿あまたくひけるよりの病哉」「我好の柿をくはれぬ病哉」「胃を病んで柿をくはれぬいさめ哉」「癒えんとして柿くはれぬそ小淋しき」と句に詠みました。 だが、柿を食べるのを止めたことを知らぬ人から柿が届きます。病床の近くで客や家族が柿を食うのを子規は恨みました。「柿くはぬ病に柿をもらひけり」「側に柿くふ人を恨みけり」と詠んでいます。 この年の秋、栃木の小林臍斎が新聞「日本」の記者浅水南八に「きざ柿」をことづけました。この時期としては珍しい柿です。「きざ柿」とは、不完全甘柿が木になったまま甘くなった柿で、「木醂」「木淡」「木晒」とも書きます。子規は12月1日、「風呂敷をほどけば柿のころげゝり」「停車場にかき売る柿の名処哉」「初なりの柿を仏にそなへけり」「しぶ柿の木蔭に遊ぶ童哉」の句を臍斎に送りました。つまり、子規は禁止されていた柿を食べてしまったのでした。 翌年の12月6日、臍斎に送った「柿をもらひ柿の一句を報いけり」は、「きざ柿」のお礼の句です。死期の迫った明治34年11月の礼状には「柿くふも今年ばかりと思ひけり」と詠んでいます。 明治34年2月9日掲載の『墨汁一滴』には、子規宛てに送ってきた全国各地の名物が書かれています。 北海道から九州、はてはアメリカの名物が記されているのですが、「ホトトギス」により子規の名が広く全国に知れ渡ったことを示すものです。また、今までの「日本」新聞の読者からのものもあり、病床にいる子規に向けて、元気を願って各地の名物が送られたのでした。 赤木格堂は『子規夜話』で「先生の俳句の門流が全国各地に散布していた外に、先生の交友も案外広かったらしい。その人々が何れも先生の身病床三尺を出でざるに同情していたためでもあろうが、根岸庵へ行くと絶間なしに各地の名産珍物が届いていた。この一事は確かに貴族富豪にも劣らない幸福を得られたものと言わねばならぬ」と記しています。 また、河東碧梧桐の『のぼさんと食物』には「地方の俳人から、土地の名産を贈ってくるのも、日ましに多くなった頃だった。どうも、うちの奴ら、よそから物を贈ってくるのに馴れてしまって、まだ来ないの、こんなものをなど、けしからんことをいうてな、と不平らしくこぼしたことがあった」とあり、子規への送りものが恒常化してきていることがよくわかります。 ただ、この中で下記に関係するのは「越中の干柿」だけでした。 子規にとって最後の柿の年になる明治34年、全国の門人からの柿が届きました。10月9日に鈴木氏、20日に伊予小松の森田義郎、23日に香取秀真より柿2種24日に中村不折の妻、25日に加賀の北川洗耳より大和柿、12月に茨城の長塚節から蜂屋柿40個、明治35年に山口花笠から干柿が届いています。 富山の花笠は、明治32年から子規宛てに毎年干柿を送っています。彼の『子規先生追懐記』には、子規から貸してくれと頼まれていた俳書『淡路島』を送ったついでに干柿を送っていて、礼状には「干柿の次の便りや春半」という句が添えられていました。翌年には「ころ柿も一年ぶりや淡路島」の句が送られ、明治35年には「当年のは柔かくて殊に美味を覚え候」と美味しかったことを伝えています。 この年の生柿の季節、子規はもう鬼籍の人となっていたのでした。