漱石とアート88/岡本一平
大正3年6月15日、漱石は岡本一平に手紙を書きました。その内容は、岡本一平著並画の『探訪画趣』序として公表されています。 私は朝日新聞に出るあなたの描いた漫画に多大な興味をもっている一人であります。いつか社の鎌田君にその話をして、あれなりにして捨ててしまうのは惜しいものだ、今のうちにまとめて出版したらよかろうにといったことがあります。その後あなた自身が見えた時、私はあなたに自分の描いたものはみんな保存してあるでしょうねと聞いたら、あなたは大抵散逸してしまったように答えられたので私は驚ろきました。もっともそういう私も随分無頓着な方で、俳句などになると、作れば作ったなりで、手帳にも何にも書き留めて置かないために、ちょっと短冊などを突きつけられて、忘れたものを思い出すのに骨の折れる場合もありますが、それは私がその道に重きを置いていない結果だから、仕方がありませんが、貴方あなたの画は私の俳句よりも大事にして然るべきだと私はかねてから思っていたのだから、それを揃えて置かない貴方の料簡が私には解らなかったのです。 あなたは私にいわれて始めて気が付いたように工場の中を探し廻ったというじゃありませんか。そうしてようやくそれを出版するだけにまとめたのだそうですね。そうなればあなたの労力が単独に世間に紹介されるという点において、あなたも満足でしょう、最初勧誘した責任のある私も喜ばしく思います。私ばかりではありません、世の中には私と同感のものがまだたくさんあるに違ないのです。 普通漫画というものには二た通りあるようです。一つは世間の事相に頓着しない芸術家自身の趣味なり嗜好なりを表現するもので、一つは時事につれてその日々々の出来事を、ある意味の記事同様に描き去るのです。時と推し移る新聞には、無論後者の方が大切でしょうが、あなたはその方面においての成功者じゃなかろうかと私は考えるのです。私が最初あなたに勧めて、年中行事というようなものを順次にならべて一巻にしたら何どうだろうといったのは、これがためなのです。見る人は無論あなたの画から、何時どんなことがあったかの記憶を心のうちに呼び起すでしょう、しかも貴方の表現したような特別な観察点に立って、自分がいまだかつて経験しなかったような記憶を新らしくするでしょう。この二つの記憶が経となり緯となって、ただでは得られない愉快が頭の中に満ちて来るかも知れません。忙がしい我々は毎日々々蛇が衣を脱ぐように、我々の過去を未練なく脱いで、ひたすら先へ先へと進むようですが、たまには落ち付いて今まで通って来た途を振り向きたくなるものです。その時茫然と考えているだけでは、眼に映る過去は、映らない時と大差なき位に、貧弱なものであります。あなたの太い線、大きな手、変な顔、すべてあなたに特有な形で描かれた簡単な画は、その時我々に過去はこんなものだと教えてくれるのです。過去はこれ程馬鹿気て、愉快で、変てこに滑稽に通過されたのだと教えてくれるのです。我々は落付いた眼に笑を湛たたえてまた齷齪と先へ進むことが出来ます。あなたの観察に皮肉はありますが、苦々しい所はないのですから。 もう一つあなたの特色を挙げて見ると、普通の画家は画になる所さえ見付ければ、それですぐ筆を執ります。あなたはそうでないようです。あなたの画には必ず解題が付いています。そうしてその解題の文章が大変器用で面白く書けています。あるものになると、画よりも文章の方が優っているように思われるのさえあります。あなたは東京の下町で育ったから、こういう風に文章が軽く書きこなされるのかも知れませんが、いくら文章を書く腕があっても、画がその腕を抑えて働らかせないような性質のものならそれまでです。面白い絵説の書ける筈はありません。だから貴方は画題を選ぶ眼で、同時に文章になる画を描いたといわなければなりません。その点になると、今の日本の漫画家にあなたのようなものは一人もないといっても誇張ではありますまい。私はこの絵と文とをうまく調和させる力を一層拡大して、大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いて頂きたいような気がするのです。(岡本一平著並画『探訪画趣』序) この年の4月15日、漱石は朝日新聞の鎌田敬四郎に宛てて「拝啓。御手紙をありがとう。小説はとうから取掛るべきでありますが、横着のためついつい延びまして、その結果、編輯上御心配をかけまことに申訳がありません。なるべく早く書いて御催促を受けないで済むようにします。テニエルの切抜もありがとう。読んで見ました。九十四まで生きた人はあんまりないようですね。一平さんの漫画はまだ出版になりませんか。一平さんの画は百穂君の挿画などより評判がいいようです。一平さんの赤ん坊が死ん〔だ〕ことは始めて承知しました。今度会ったらどうぞ忘れずに弔詞を述べて置いて下さい。私は一平さんに妻君があろうとも思いませんでした。実際わかい顔をしているではありませんか。右まで。拝」という手紙を書き、一平の漫画集の出版時期を尋ねています。 ここにある「赤ん坊が死んだ」とは、岡本一平・かの子夫妻の長女豊子のことで、大正2年8月23日に生まれ、翌年4月11日に亡くなっています。 岡本一平は明治19(1886)年に北海道で生まれました。津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家の岡本可亭の長男で、子供の才能を見抜いた父の勧めもあり、東京美術学校西洋画科に進学して藤島武二に師事しています。しかし、同期に藤田嗣治など優秀な画家が多かったため、画家への道をあきらめ、帝国劇場の舞台美術の仕事につきますが、画力を生かした職につきますが、明治43年(1910)岡本かの子と結婚。朝日新聞の挿絵を描くアルバイトを始めました。当時、社会部部長の渋川玄耳が一平の絵の才能に注目。正社員として彼を雇い、漱石の一平の才能に驚いたのでした。 漱石に関連する漫画には『坊っちゃん絵物語』『漱石八態』などがあります。