子規と食べものの句84/ケータリング
夏休みの書生になじむ船の飯(明治30) 松茸は茶村がくれし小豆飯(明治30) 飯くはす小店もなくて桃の村(明治34) 明治35年7月24日の『病牀六尺』で、子規はユニークな提言をしています。それは惣菜の調理を一手に引き受ける「炊飯会社」を興してはどうかというものでした。 全文を紹介すると次のようなものです。 家庭の事務を減ずるために飯炊会仕を興して飯を炊かすようにしたならば善かろうという人がある。それは善き考えである。飯を炊くために下女を置き竃(かまど)を据えるなど無駄な費用と手数を要する。吾々の如き下女を置かぬ家では家族のものが飯を炊くのであるが、多くの時間と手数を要する故に病気の介抱などをしながらの片手間には、ちと荷が重過ぎるのである。飯を炊きつつある際に、病人の方に至急な要事ができるというと、それがために飯が焦げ付くとか片煮えになるとか、(ご飯が)できそこなうようなことが起る。それ故飯炊会社というようなものが有って、それに引請けさせて置いたならば、至極便利であろうと思うが、今日でも近所の食物屋に誂えれば飯を炊いてくれぬことはない。たまたまにはこの方法を取ることもあるが、やはり昔からの習慣は捨て難いものと見えて、家族の女どもは、それを厭うてなるべく飯を炊くことをやる。ひまな時はそれでも善いけれど、入手の少くて困るような時に無理に飯を炊こうとするのは、やはり女に常識の無いためである。そんなことをする労力を省いて他の必要なることに向けるということを知らぬからである。必要なることはその家によって色々違うことは勿論であるが、一例を言えば飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、余程飯は甘美(うま)く喰える訳である。病人のあるうちならば病牀についておって面白き話をするとか、聞きたいというものを読んで聞かせるとかする方が余程気が利いている。しかし日本の飯はその家によって堅きを好むとか柔かきを好むとか一様で無いから、西洋の麺包(パン)と同じ訳に行かぬところもあるが、そんなことはどうともできる。飯炊会社がかたき飯柔かき飯上等の飯下等の飯それぞれ注文に応じてすれば小人数のうちなどはうちで炊くよりも、誂える方がかえって便利が多いであろう。(病牀六尺 明治35年7月24日) お手伝いさんを置かない一般的な家庭では、病人の世話などは家族の負担になります。用事ができると、食事をつくるのがおろそかになって、満足な料理ができません。そのために会社をつくって料理を届ければ、この問題は解消するというのです。 その会社がそれぞれの家の食の好みを把握しておけば、うちで食事をつくるより便利であると、現在のケータリング・サービスのような発想をしています。 明治34年1月31日発行の「ホトトギス」に掲載された「初夢」でも、観光ビジネスへの提言をしています。このなかで松山人の商売の下手さを揶揄する部分があります。 道後に名物がないから陶器を焼いて、道後の名物としようというのヨ。お前らも道後案内という本でもこしらえて、ちと他国の存をひく工面をしてはどうかな。道後の旅店なんかは三津の浜の艀(はしけ)の着くところへ金字の大広告をする位でなくちゃいかんヨ。も一歩進めて、宇品の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん。(初夢) 子規が結核に罹らず元気な体のままでいたら、新しいビジネスの発想で、日本のシステムを変えていたのではないでしょうか。