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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2021.11.29
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カテゴリ:夏目漱石
 先生は仰いで壁間の額を見た。京の舞子が友禅の振袖に鼓を調べている。今打って、鼓から、白い指が弾き返されたばかりの姿が、小指の先までよくあらわれている。しかし、そんなことに気のつく道也先生ではない。先生はただ気品のない画を掛けたものだと思ったばかりである。向うの隅にヌーボー式の書棚があって、美しい洋書の一部が、窓掛の隙間から洩れて射す光線に、金文字の甲羅を干している。なかなか立派である。しかし道也先生これには毫も辟易しなかった。(野分 3)
 
 昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、きのうポンチ絵をかいた男が来て、おいおいといいながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。淀見軒という所は店で果物を売っている。新しい普請であった。ポンチ絵をかいた男はこの建築の表を指さして、これがヌーボー式だと教えた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものとはじめて悟った。帰り道に青木堂も教わった。やはり大学生のよく行く所だそうである。赤門をはいって、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことをいった。(三四郎 3)
 
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、デザイナーたちは時代にふさわしい新しい装飾芸術を追求しはじめました。葛飾北斎を中心とする浮世絵に魅了された人々が始めたジャポニズムの動きや、ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動の影響により自パリとブリュッセルでアール・ヌーヴォーが誕生しました。
「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォーは、日本美術を扱う画商ビングが1895年に開いた店の名前に由来します。ビングは、ヨーロッパ工芸を復活させるために、日本の美術・工芸のように自然の形態から学ぶ必要があると考えていました。
 アール・ヌーヴォー様式の特徴は、植物などの有機的な形態を用いた曲線です。植物や昆虫を自然のままに表現したエミール・ガレのガラス作品、優雅な曲線に覆われたガイヤールの家具、幾何学的な形と日常的な用途を結びつけたホフマンの銀器などは、当時の工芸的技術の粋が尽くされ、デザイナーの個性があふれています。






最終更新日  2021.11.29 19:00:05
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2021.11.28
カテゴリ:正岡子規
 子規と漱石が仲良くなるのは、明治22年初頭の頃でした。漱石の『正岡子規』には次のように書いています。
 
 また正岡はそれより前漢詩を遣っていた。それから一六風か何かの書体を書いていた。その頃僕も詩や漢文を遣っていたので、大に彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。ある時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いてその中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せたことがある。処が大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。何でもその中に、英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いておった。ところがその大将の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりも沢山作っており、平仄も沢山知っている。僕のは整わんが、彼のは整っている。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼の方が旨かった。もっとも今から見たらまずい詩ではあろうが、先ずその時分の程度で纏ったものを作っておったらしい。たしか内藤さんと一緒に始終やっていたかと聞いている。
 彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為していた。僕はそういう方に少しも発達せず、まるでわからん処へ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持ち込み、大分振り廻していた。もっとも厚い独逸書で、外国にいる加藤恒忠氏に送って貰ったもので、ろくに読めもせぬものを頻りにひっくりかえしていた。幼稚な正岡がそれを振り廻すのに恐れを為していた程、こちらは愈々幼稚なものであった。
 妙に気位の高かった男で、僕なども一緒に矢張り気位の高い仲間であった。ところが今から考えると、両方共それ程えらいものでも無かった。といって徒らに吹き飛ばすわけでは無かった。当人は事実をいっているので、事実えらいと思っていたのだ。教員などは滅茶苦茶であった。同級生なども滅茶苦茶であった。
 非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わしておったので、それも苦痛なら止めたのだが、苦痛でもなかったから、まあ出来ていた。こちらが無暗に自分を立てようとしたら迚も円滑な交際の出来る男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでも無いのだが、自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人が善かったのだな。今正岡が元気でいたら、余程二人の関係は違うたろうと思う。もっともその他、半分は性質が似たところもあったし、また半分は趣味の合っていた処もあったろう。も一つは向うの我とこちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのでもあろう。忘れていたが、彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大に寄席通を以て任じている。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大に近よって来た。(夏目漱石 正岡子規)
 
 ただ、5月9日の夜、子規は突然喀血しました。翌日、医師の診察を受け、肺病と診断されています。子規は、さほど大病と思わなかったのか、その日の午後に九段で行われた会合に出席しています。ところがその日の午後11時に再び喀血したのです。
 
 このことを聞いた漱石は、5月13日に子規宛の手紙を送りました。
 
 今日は大勢罷出失礼仕候。しからばそのみぎり帰途山崎元修方へ立寄り、大兄御病症並びに療養方等委曲質問仕候処、同氏は在宅ながら取込有之由にて不得面会、乍不本意取次
を以て相尋ね申候処、存外の軽症にて別段入院等にも及ぶまじき由に御座候えども、風邪のために百病を引き起すと一般にて、喀血より肺労または結核の如き劇症に変ぜずとも申しがたく、只今は極めて大事の場合故出来るだけの御養生は専一と奉存候。小生の考えにては山崎の如き不注意不親切なる医師は断然廃し、幸い第一医院も近傍に有之候えば一応
同院に申込み、医師の診断を受け入院の御用意有之たく、さすれば看護療養万事行き届き十日にて全快する処は五日にて本復致す道理かと存候。かつ少しにても肺患に罹る「プロバビリチー」ある以上は二豎の膏肓に入らざる前に英断決行有之たく、生あれば死あるは古来の定則に候えども、喜生悲死もまた自然の情に御座候。春夏四時の循環は誰れも知る事ながら、夏は熱を感じ冬は寒を覚ゆるもまた人間の免かるる能わざる処に御座候えば、小にしては御母堂のため、大にしては国家のため自愛せられん事こそ望ましく存候。雨ふらざるに牖戸を綢繆すとは古人の名言に候えば、平生の客気を一掃して御分別有之たく、この段願上候。
 
  to live is the sole end of man!
     五月十三日
   帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
   聞かふとて誰も待たぬに時鳥
                     金之助
 正岡大人 梧右
 
 いずれ二、三日中に御見舞申上べく、また本日米山、龍口の両名も山崎方へ同行しくれたり。
 僕の家兄も今日吐血して病床にあり。かく時鳥が多くてはさすか風流の某も閉口の外なし。呵々。(夏目漱石 明治22年5月13日 子規宛書簡)
 
 この手紙では、子規の病気の様子がはっきりとしないため、漱石の心配している様子が見て取れます。
 漱石は兄の直矩を吐血したことを伝え、結核に怯えていたことを示しています。






最終更新日  2021.11.28 19:00:06
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2021.11.27
カテゴリ:夏目漱石
 余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙よのなかでもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの気合きあい一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の嗜好で異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、自ずから制限されるのもまた当前である。英国人のかいた山水に明るいものは一つもない。明るい画が嫌いなのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうすることも出来ない。同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。違うはずである。彼は英人でありながら、かつて英国の景色をかいたことがない。彼の画題は彼の郷土にはない。彼の本国に比すると、空気の透明の度の非常に勝っている、埃及(エジプト)または波斯(ペルシャ)辺の光景のみを択んでいる。したがって彼のかいた画を、始めて見ると誰も驚ろく。英人にもこんな明かな色を出すものがあるかと疑うくらい判然出来上っている。(草枕 12)
 
 グドールとは19世紀の風景画家・フレデリック・グドールのことです。父親は版画家で火の才能を受け継いだグーダルは、幼い頃から画才があり、14歳の時にはロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に出展し、銀メダルを受賞しています。このロイヤル・アカデミーの展覧会には、1838年から1859年までの間に27回出展しています。
 火右隻が書くように、グーダルは独特の色彩感覚を持ち、遅刻の風景をカンヴァスに刻みました。フランス、ベルギー、アイルランドの旅で多くの作品を描いたのですが、エジプトの風景に魅了され、晩年に再びエジプトを訪れています。






最終更新日  2021.11.27 19:00:06
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2021.11.26
カテゴリ:夏目漱石
「どうもうまくかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自ずから筆をとって見ると今更のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐である。なるほどいつわりのない処だ。彼の友は金縁の眼鏡越しに主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔し以太利(イタリー)の大家アンドレア・デル・サルトがいったことがある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんなことをいったことがあるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人は無暗に感心している。金縁の裏には嘲るような笑いが見えた。
 その翌日吾輩は例のごとく椽側に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後で何かしきりにやっている。ふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分寝た。欠伸がしたくてたまらない。しかしせっかく主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒しておった。彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩っている。吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯(ペルシャ)産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入の皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その上不思議なことは眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫だか寝ている猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。(吾輩は猫である 1)
 
 主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁眼鏡の美学者が久し振りで主人を訪問した。彼は座につくと劈頭第一に「画はどうかね」と口を切った。主人は平気な顔をして「君の忠告に従って写生を力めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよく分るようだ。西洋では昔から写生を主張した結果今日のように発達したものと思われる。さすがアンドレア・デル・サルトだ」と日記の事はおくびにも出さないで、またアンドレア・デル・サルトに感心する。美学者は笑いながら「実は君、あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と主人はまだいつわられたことに気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕のちょっと捏造した話だ。君がそんなに真面目に信じようとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の体である。吾輩は椽側でこの対話を聞いて彼の今日の日記にはいかなることが記さるるであろうかと予め想像せざるを得なかった。この美学者はこんないい加減なことを吹き散らして人を担ぐのを唯一の楽しみにしている男である。彼はアンドレア・デル・サルト事件が主人の情線にいかなる響を伝えたかを毫も顧慮せざるもののごとく得意になって下のようなことを饒舌った。「いや時々冗談をいうと人が真に受けるので大いに滑稽的美感を挑撥するのは面白い。せんだってある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたといったら、その学生がまた馬鹿に記憶の善い男で、日本文学会の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。ところがその時の傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心にそれを傾聴しておった。それからまだ面白い話がある。(吾輩は猫である 1)
 
 美学者迷亭のアンドレア・デル・サルトのデタラメ写生論と、それを素直に信じてしまう苦沙弥の滑稽さが印象的な部分です。
 アンドレア・デル・サルトは、16世紀初頭のルネサンス期に活躍したフィレンツェ出身の画家で、幻想画家として知られるピエロ・デイ・コージモに師事したのち、レオナルド・ダ・ヴィンチに傾倒して、精密な写実性を特徴としました。だから、迷亭の語る「写生論」にはうなずかされてしまうのです。
 
 迷亭が巧妙なのは、後期ルネサンスの美術様式であるマニエリスムの画家を、弟子たちの中から輩出させました。マニエリスムは誇張された遠近法と短縮法、不自然な空間表現、反自然主義的な色調などで構成され、写生の概念とは大きく異なるのですが、サルトのスタイルは、ダ・ヴィンチやラファエロ、フラ・バルトロメオなどのルネサンス期の巨匠たちの技法を踏襲しているため、「写生論」を現実のものと勘違いさせる効果があります。
 つまり、写生を繰り返したからこそ、ミケランジェロやラファエロらルネサンスの巨匠が確立した「様式美」を規範としながら、さらに独自の誇張を加えた技法として新しい絵画を目指したのがアンドレア・デル・サルトのなのです。






最終更新日  2021.11.26 19:00:06
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2021.11.24
カテゴリ:正岡子規
 子規は晩年になると、「滋養論」とともに牛乳を飲むことをみんなに提唱しました。晩年の子規を綴った赤木格堂の『子規夜話』には、京都の天田愚庵に薦められた経緯と牛乳の価値を語る子規の姿が描写されています。愚庵は明治32年に上京して子規を訪ねていますので、その頃のことでしょうか。
 
 子供の時から坊主に育ったものには、随分偽者が多いようだが、中道、何か大いに感じて頭を剃った坊さんには尊敬すべきものがある。桃山の愚庵などはその一人だ。愚庵が戒を守るのは、それこそ真剣に正直に守りきるのだ。いつか見舞に来てくれて僕にしきりと牛乳を勧めて、「ぜひ牛乳を飲め。医者よりも薬よりも牛乳くらい体に利くものはない」と無闇に牛乳万能を説くから、何してかと思ってよく訊いてみると、和尚が病気の時分に人の勧めで牛乳を飲んだら、それで回復したというのだ。平生戒めを守って魚肉を遠ざけ、全くの粗食に甘んじていたから殊に牛乳の利き目が強かったのであろう。しかも一日幾合あて飲まれたかと聞くと、毎日一升ずつ飲んだという。あの体格だからそれ位は無理でもなかるまいが、平生粗食していて、にわかに一升あてもやれば、そりゃ随分利いたろう。その経験を僕へ応用しようというんだから面白いじゃないか。(赤木格堂 子規夜話)
 
 愚庵は、明治33年、明治天皇の御陵地選定のために京都を訪れた内務大臣・品川弥二郎を案内して、伏見桃山へ誘います。御陵地は伏見に決まったのですが、愚庵も温暖な気候の桃山がすっかり気に入りました。そこで、産寧坂の庵を売却して龍雲寺の近くの土地を手に入れ、庵を建てました。
 完成の喜びに、愚庵は「桃山結庵歌」19首を詠んでいます。
 
   打日指京のうちをことしげみ伏水の里に我は来にけり
   三吉野の吉野若杉丸太杉柱にきりてつくる此庵
   天地に祝ひて作る我庵の棟上の日を雨な降りそね
   我庵は誰が来て作る西浜の江崎の子等が米てぞ作れる
   遠山は葛城の山志直の山生駒の山のいただきも見ゆ
   青丹よし奈良の都の春日野の春日の山も霞みてぞ見ゆ
 
 ただ、愚庵の健康が優れません。
 明治34年5月5日、愚庵は「遺物贈与之事は悉元策の勝手たるべし。但し従来寄付者の姓名知れおるものにて、珍本奇書あるいは大切の品々は、該寄付者へ迎付するを好しとす。我が買得たる品物は尽く元策の所有とすべし」と遺書をしたためます。
 ただ、不思議なことにこれ以降、愚庵は小康を保ちます。子規は『仰臥漫録』の同年9月5日に「青崖と愚庵芭蕉と蘇鉄哉」という句を記しています。この月に青崖が愚庵のところにしばらく滞在することがわかったからでしょう。
 明治35年、36年と、愚庵は各地に出かけています。明治35年は陸羯南とともに伊勢へ、明治36年は道後温泉で新年を迎えます。そして、5月には上京し相撲観戦を楽しんでいます。死期が近いと悟った愚庵は、無理をしてでも各地を旅したのでした。
 
 明治37年の元日に「童謡二十首」が新聞「日本」に載りますが、その夜に発熱します。死を覚悟した愚庵は、14日夕刻、遺言状を書くと翌日から薬餌の全てを断ち、看病や見舞いの人に一々手を握って別れの挨拶をしました。16日には法弟に身を拭ききよめさせ、麻の法衣をまといます。17日の午前11時過ぎには法弟を促して読経をさせ、それが終わろうとする時にあの世へと旅立ちました。






最終更新日  2021.11.24 19:00:06
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2021.11.23
カテゴリ:正岡子規
「そういう自然派なら、文学のほうでも結構でしょう。原口さん、絵のほうでも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。
「あるとも。恐るべきクールベエというやつがいる。ヴェリテヴレイ。なんでも事実でなければ承知しない。しかしそう猖獗を極めているものじゃない。ただ一派として存在を認められるだけさ。またそうでなくっちゃ困るからね。小説だって同じことだろう、ねえ君。やっぱりモローや、シャバンヌのようなのもいるはずだろうじゃないか」
「いるはずだ」と隣の小説家が答えた。(三四郎 9)
 
 クールベエとは、フランスの画家ギュスターヴ・クールベのことです。写実主義運動を率いて19世紀フランス絵画の革新者として大きな影響を与えました。
 クールベは、宗教的な主題や伝統的な絵画を否定し、自分が実際に現実で見たものだけを描きました。
 当時の絵画は古代の神々や殉教者、英雄などを理想化された姿で描いたものでしたが、クールベは市井の人々を描いて「歴史画」と称しました。そのため、クールベは酷評されたのでした。
 1855年にパリ万国博覧会が開催された時、クールベは代表作とされる『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』を出品しますが、落選してしまいます。そこでクールベは博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、これらの作品を公開しました。この作品展は、世界初の「個展」だといわれています。
 
 1789年のフランス革命から30年後に誕生したクールベでしたが、人民の権利と平等を目指すために、貧しい農民や労働者の姿、美化されていない女性のヌードなどの写実表現を実践しています。この運動に賛同した画家にミレーやドーミエがいます。
 また、クールベは1871年のパリ・コミューンの際にヴァンドーム広場のコラムの解体に関与したため、6ヶ月間投獄されています。釈放後は、スイスへ移り、死ぬまでそこで過ごしました。この時代は、1848年にマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が刊行されるなど、社会主義やより急進的な共産主義が誕生しており、貧困や社会的不平等についての意識が先鋭化した時代でもありました。クールベは社会活動家ともなっていたのです。
 
『三四郎』の原口氏は「自然派」と称していますが、初の個展である「レアリスム宣言」において、「自分は生きた芸術をつくりたいのだ」といっており、「写実派」としたほうがいいのかもしれません。
 左翼的な芸術家として捉えられ、作品を通じて大胆な社会的声明を発する社会芸術家として位置づけされ、近代絵画の創始者のひとりとしみなされることもあります。






最終更新日  2021.11.23 19:00:04
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カテゴリ:正岡子規
 明治31年3月26日、子規は再び愚庵に和歌の極意について聞いています。子規の場合、自分の方向は定めているのですが、それでも人に意見を聞こうとします。
 子規は「雅語と俗語の差と、それをわかに生かすことができるかという点」「三代集(「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」)を謗ることについて」の2点について愚庵に尋ねています。
 これは、「日本」に掲載した「歌詠みに与うる書」への反響が子規の想像以上に大きかったことを示しています。
 
 御手紙拝誦仕候。その後御快方之由奉賀候。この両三日大分暖かに覚え候。御地も同しことと存候。
 歌のことにつき御教誨を被り難有存候。
 梅か香云々のこと歌に詠まれぬというにあらず。もちろん趣味深きように他の配合物を択んでよまば梅が香の歌千も万も面白きもの出来可申候えども、従来の歌の如く梅が香を闇とか月とかいう位のことばかりを配合して同じようなこと詠み候を誹りたるまでに候。
 雅語と俗語のことに付きては、もとより俗語を善しとするには無之、雅語の可なる場合には雅語を用い、俗語の可なる場合には俗語を用いんと申すものに有之候。雅語を用いたりとて歌が雅になるとも限り申さざるべく(今のいわゆる歌よみの如き雅語を用いて随分俗な歌を作り申候)俗語を用いたりとて必ずしも歌が俗になるものにても無きかと存候。お姫様のぬらくらとして善いも悪いも芋の煮えたも知らで、おばさんよりは乞食の子のかいがいしく親に仕えたらんこそとうとけれと被思候。雅俗は形の上にもあれど心の上の雅俗が一層注意すべきことかと存候。御書面中にある俗語の例など、私は面白く覚え候。
   ベラボーメくそをくらへと君はいへど
      (コン畜生にわれあらなくに)試みにつけ申し候
 という歌を短冊に書きても「心あてに折らはや折らむ初霜のおきまとはせる白菊の花」などいう歌を短冊に書きたる程には見苦しからずと存候。ベラボーメの歌の方が調が高しと存候。またベラボーメの歌趣向とてもなけれど躬恒の歌の趣向のいやみ多きには勝ると存候。これを喩え候わんに躬恒の歌は金殿玉楼の中に住む貴人のいい加減な法螺を吹きて気取りたるが如くベラボーメの歌は市井の小児の善も知らず悪も知らず天真爛漫のままに振舞うが如し。私は後の方が心持よく覚え申候。
 漢語につきても同様のことに候。漢語ならでは言えぬことはもちろん、国語にも漢語にもあることにてもことさらに国語を捨てて漢語を取る方が面白き場合、しばしば有之かに存候。例えばふかみくさといわずして牡丹と詠む方が善き場合など、私はしばしば実験いたし候。八大龍王にてもこれを「八つの龍のおおきみ」(七の賢き人の例に傲いて)といい得べしとするもなお八大龍王という方がまされるかと存候。「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち」の歌にても、これが漢語や国語に訳し得らるるものとするもなお仏語を用うる方
がまさり居候と存候。日本語などに訳し候はば、恐らくは興味索然といたし候わんか故に、私の存じ侯は漢語でも梵語でも用いて善き場合には用うるが善しと存候。
 三代集を誹ることにつきの御叱り恐入候。とにかく何百年の間たて物とせられたる古今集や貫之や躬恒やをひっつかまえて味噌の糞のと申候こと、私の身の上より申さばもとよりあるまじきしわざと存候えども、今の歌人の余り意気地なさに腹が立ち候ままかかることにも及ぴ申候。しかし貫之以下の歌につきては如何御考え被成候や、歌として見候わば趣味ある歌(一二を除きては)少くと存候。既に万葉の歌を善しとする上は、古今集以下の歌は善しとは思われぬ訳と存候。(実朝卿のは特別に候)
 私どもがくだらぬ歌などつくり候えども、これが歌の唯一の恨と存候には無之候。もとより一体として存ずれば善きものに有之候。古来の歌の想を破壊すぺしなどと申し候も、畢竟古今以来今日に至るまでの弊風をいうものにして、万葉の歌の想を破壊せんとするものには無之候。万葉調は大に興すべきものと存候。
 もののふの八十氏川の歌につきては他日新聞にて弁明するつもりなれとも、あの歌を左程誹りたるものにては無之、ふと思いつき候こと有之候まま引合に出し候えども、八田の歌などと並べしは悪かりしと存居候。あの歌は善き歌として異論無之候。
 素人が歌や詩を評せしを例にあげて御誠め被下候はチトなさけなく存候。もとより私等歌の学問を深くしたる訳にもあらねば、間違は澤山可有之候えども、間違ったことは分り次第漸次に相改め可申、とにかくどこまでもやるつもりに有之候。局外者が一寸試みたるデモ評とは精神において異り可申候。今度のことにても一朝一夕の出来心には無之、数年来の計画、機を得て一時に被したるものに候。今まで歌のことというといつも先輩と意見を異にしために愚見を十分に吐露するを得ずして終り候。
 
それ故この度ははじめより羯南翁に請いて歌論及ぴ拙作掲き承諾を得申候次第に候。しかし掲載後も翁よりは常に注意を受け居候。
 湖村子先夜来り漢語の事につき話有之、その説に「五畝の宅」とか「御歌を吟すれば」とかいう位は可なれども余り沢山用いては困るとのことに候。その外いろいろ話あり候。夜の二時に及ぴ候ことも有之候。
 右御返事かたがた相認候。失礼の処は御海容被下度候。実は御返事出すことも如何すべきと存居候いしかども黙々に附するは礼にあらずと存、また御返事出す上は心に不服なるを隠して表面いい加減に申置候も良心に咎むるところあり、終に思う存分申述候まま、いよいよ失礼の言多かるべくと存候。衷情御察可被下候。謹言。(愚庵宛書簡 明治31年3月26日)






最終更新日  2021.11.23 12:38:57
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2021.11.21
カテゴリ:夏目漱石
「くだって十六七世紀の頃までは全欧を通じて孔雀は宴席に欠くべからざる好味と相成居候。レスター伯がエリザベス女皇をケニルウォースに招待致し候節もたしか孔雀を使用致し候様記憶致候。有名なるレンブラントが画き候饗宴の図にも孔雀が尾を広げたるまま卓上に横たわりおり候……」
 孔雀の料理史をかくくらいなら、そんなに多忙でもなさそうだと不平をこぼす。(吾輩は猫である 2)
 
 レンブラントと孔雀といえば、少女が血抜きをしている孔雀を眺めている「孔雀のある静物」がよく知られています。しかし、卓上に孔雀のある絵というと、何になるのでしょうか? 「ベルシャザルの饗宴」では縁石は描かれているのですが、孔雀の姿はありません。
 
 レンブラントは、オランダの工業都市ライデンの製粉業を営む裕福な家庭に生まれ、地元の画家ピーテル・ラストマンに弟子入りしたのち、故郷のライデンの戻り自身の工房を構えます。
 もともと、レンブラントの画風は、赤褐色又は緑褐色を基調とした明暗を対比させた力強い表現と、意志をあらわす強い表情が特徴です。
 
 レンブラントは自画像を多く描いていましたが、1629年にオランダ総督の秘書ハイヘンスが訪れ、『銀貨30枚を返すユダ』の表現を絶賛しタコとが、レンブラントの転機となりました。
 これ以来、多くの肖像画の注文が舞い込むようになったレンブラントは、1631年にアムステルダムに移住。集団での肖像画を描くようになります。一人ひとりの人物を表情豊かに描き、スナップ写真のような動きまで取り入れたことで、名声はさらに高まりました。
 1634年には、裕福な美術商の娘サスキアと結婚し、大規模な工房を構えて、さまざまなジャンルの作品を手がけます。
 一時は1000点以上の作品がレンブラント作とされたいたのですが、この時代のほとんどが弟子の手が加わった作品や署名のみレンブラントが記したということが明らかになりました。
 しかし、1642年に手がけた『フランス・バニング・コック隊長の市警団の集団肖像画』で登場人物を平等に描かなかったことで依頼主たちから不評を招き注文が激減。破産という逸話が残っていますが、これは絵によるものではなく、資産運用の失敗と女性関係のもつれにより保辛くしたと考えられています。






最終更新日  2021.11.21 19:00:05
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2021.11.20
カテゴリ:正岡子規
 俳句革新運動に成功した子規は、次に和歌革新に取り組みます。明治26年の『文学八つあたり』、明治28年の『棒三昧』などで、和歌の衰退ぶりや万葉集の素晴らしさを語っていた子規は、明治31年2月12日から『歌よみに与ふる書』を「日本」に連載します。
 子規はこの中で『古今和歌集』と紀貫之を批判し、『万葉集』を高く評価した。俳句革新で芭蕉批判を展開した事例に習い、歌人の聖典である『古今和歌集』と歌聖・紀貫之を全否定し、新しい価値観を提示しました。
 子規の論に対する反発は俳句の比ではありませんでした。「日本」社内でも、子規の論にやりすぎだと反対の声が上がり、掲載の中止も考えられたのです。また、短歌革新を掲げた与謝野鉄幹からも子規は攻撃されています。
 
 ただ、この考え方は、愚庵の和歌から導かれたものでした。前項に記した愚庵に送った和歌をきっかけとして、子規は大いなる変革を遂げたという子規研究者もいます。
 
 この時期、子規は愚庵に手紙を送りました。
 
 拝啓仕候。余寒ことの外烈敷候処御起居如何候や。承れば少と御いたわり之由、この余寒には誰も誰もやられ候ようにて、私なぞも今年は存外健康にてひそかに誇り居候処、終に血痰を見申候。しかしそれは二三日にてやみ、まずまずよろしき方に御座候。
 この頃歌をはじめ候処、余り急激なりとて陸翁はじめ皆とに叱られ候えども、やりかけたものなら死ぬるまでやる決心に御座候。昨夜も湖村子来訪、歌の話に夜の二時頃まで更かし申候。同子も漢語が多過ぎると申て忠告いたしくれ候。前月末頃は歌のために苺夜二時三時に及び、あるいは徹夜など致し候。この頃のよわりも多少はそれにも原因致候いけんと存候。
 もっとも愚見は漢語を用いざれば歌にならずなど申には無之、万葉調などは大に好む所に御座候。人は誤解致居候。
 別冊新俳句進呈致候。これは巻尾に愚庵十二勝の俳句を記し置たれば、御一覧に供うるばかりに御坐候。以上。(明治31年3月18日天田愚庵宛書簡)
 
 この手紙を読んだためでしょうか、愚庵が羯南に送った手紙には「この頃、正岡寄書歌論すこぶる得意の様子ゆえ、我不服の廉両三件申遣候。彼の論新紙上掲る以上は、老兄にも御同意と奉察候えども、余り言過ぎてはいわゆる口業をつくるものにして、その徳を損すること多からんを恐るる也。貫之、躬恒の歌と彼百中十首と比べ候えば、論ずる迄までもなきことかと存候。しかし今の世中には如何か不存候ども、過ぎたるは及ばざる如く、かえって従来博し得たる彼れか盛名を累(わざわい)することになりはせぬかと心配致候。現在の人を論するさえ易きことなれば、古人を論するは死人に口なし。反駁の恐れもなくすこぶる安心のものなるべけれども、君子はいささかか慎みたきものと存候。御意見承度候(天田愚庵 明治31年3月24日陸羯南宛書簡)」と書き、一方的に古今集を非難することは、かえって子規の名声を傷つけることになりはせぬかと愚庵は心配しています。
 
 仰せの如く、近来和歌は一向に振い申さず候。正直に申し候えば、万葉以来、実朝以来一向に振い申さず候。実朝という人は三十にも足らで、いざこれからというところにてあえなき最期を遂げられ、誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かしておいたなら、どんなに名歌をたくさん残したかも知れ申さず候。……『古今集』の長歌などは箸にも棒にもかからず候えども、箇様な長歌は古今集時代にも後世にもあまり流行らざりしこそ、もっけの幸いと存ぜられ候なれ。されば後世にても長歌を詠む者には直に万葉を師とする者多く、従ってかなりの作を見受け申し候。今日とても長歌を好んで作る者は短歌に比すれば、多少手際よくでき申し候。(歌よみに与ふる書)
 
 貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集にこれあり候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものの、実はかく申す生も数年前までは『古今集』崇拝の一人にて候いしかば、今日世人が『古今集』を崇拝する気味合いは能く存じ申し候。崇拝している間は、誠に歌というものは優美にて『古今集』はことにその粋を抜きたる者とのみ存じ候いしも、三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされておったことかと、くやしくも腹立たしく相なり候……それでも強いて『古今集』をほめていわば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したるところは取得にて、いかなる者にても初めての者は珍しく覚え申し候。(再び歌よみに与ふる書)






最終更新日  2021.11.20 19:00:07
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2021.11.19
カテゴリ:夏目漱石
 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。
「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにもいう必要がなくなった。
「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。
「三井です。三井はもっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、うまくいかないね」
 原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げたところを見ていた。(三四郎 8)
 
 ヴェラスケスは、ルーベンス、レンブラントと並ぶバロック三大巨匠の一人で、17世紀スペインバロック期に最も活躍した宮廷画家といわれています。セビーリャでパチェーコに師事した後、1623年国王フェリペ4世の専属画家となり、生涯の大半を宮廷画家として首都マドリッドで過ごしました。
 もう一人のバロックの巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスとの交流や、2度にわたるイタリア旅行により、古典主義と空間表現を取り入れた技法は、スペイン絵画独自の写実主義的陰影法を発展させました。またベラスケスは、国王一家を始め、多くの宮廷人、知識人を描いた肖像画家としても知られます。漱石の生きた時代には、写実主義か台頭したため、一時落ちていた絵の評判が、再評価されるようになりました。
 
 漱石は、『創作家の態度』と『文学論』でヴェラスケスに言及していますが、ラファエロやミケランジェロ、レンプラントに並ぶ偉大な画家として尊敬しています。
 
 日本の絵画のある派は西洋へ渡って向うの画家にはなはだ珍重されているし、また日本からはわざわざ留学生を海外に出して西洋の画を稽古しています。そうして御互に敬服しあっています。両方で及ばないところがあるからでしょう。それは、どうでも善いが、日本の画を元のままで抛っておいて、西洋の画を今の通りで遣っておいたら、両方の歴史がいつか一度は、どこかで出逢うことがあるでしょうか。日本にラファエルとかヴェラスケスのような人間が出て、西洋に歌麿や北斎のごとき豪傑があらわれるでしょうか。ちと無理なようであります。それよりも適当な解釈は、西洋にラファエルやヴェラスケスが出たればこそ今日のような歴史が成立し、また歌麿や北斎が日本に生れたから、浮世絵の歴史がああいう風になったと逆に論じて行く方がよくはないかと存じます。したがってラファエルが一人出なかったら、西洋の絵画史はそれだけ変化を受けるし、歌麿がいなかったら、風俗画の様子もよほど趣が異なっているでしょう。すると同じ絵の歴史でもラファエルが出ると出ないとで二通り出来上ります。(事実が一通り、想像が一通り)風俗画の方もその通り、歌麿のあるなしで事実の歴史以外にもう一つ想像史が成立する訳であります。ところでこのラファエルや歌麿は必ず出て来なければならない人間であろうか。神の思召しだといえばそれまでだが、もしそういう御幣を担がずに考えて見ると、三分の二は僥倖で生れたといっても差支えない。もしラファエルの母が、ラファエルの父の所へ嫁に行く代りにほかの男へ嫁いだら、もうラファエルは生れっこない。ラファエルが小さい時腕でも挫いたら、もう画工にはなれない。父母が坊主にでもしてしまったら、やはりあれだけの事業はできない。よしあれだけの事業をしても生涯人に知らせなかったらけっして後世には残らない。して見ると西洋の絵画史が今日の有様になっているのは、まことに危うい、綱渡りと同じような芸当をして来た結果といわなければならないのでしょう。少しでも金合かねあいが狂えばすぐほかの歴史になってしまう。議論としてはまだ不充分かも知れませんが実際的には、前に云ったような意味から帰納して絵画の歴史は無数無限にある、西洋の絵画史はその一筋である、日本の風俗画の歴史も単にその一筋に過ぎないという事が云われるように思います。これは単に絵画だけを例に引いて御話をしたのでありますが、必ずしも絵画には限りますまい。文学でも同じ事でありましょう。同じ事であるとすると、与えられた西洋の文学史を唯一の真と認めて、万事これに訴えて決しようとするのは少し狭くなり過ぎるかも知れません。歴史だから事実には相違ない。しかし与えられない歴史はいく通りも頭の中で組み立てる事ができて、条件さえ具足すれば、いつでもこれを実現する事は可能だとまで主張しても差支ないくらいだと私は信じております。(創作家の態度)
 
 MuirheadかつてRousseauの人は自由に生れたりといえるを駁せるの序、書物上の言語の社会的所得なるを論じて曰く、世間往々にして書を著わすと号するものあり。彼らはその名を巻頭に署しまたその参考書目を序中もしくは篇末に掲げて憚る所なし。余の見る所をもってすれば、参考書目を冒頭に掲げて、自己の名を巻末に置くの、多くの場合において事実に近きを知る。著者のなせる所のもの、また著者のなし得る所のものは、無数の年月の労力によりて彼に供給せられたる材料を新型に再鋳するに過ぎざればなり。この意義においてEmersonのいえるが如く各人は、等しく剽窃者なり。各物は剽窃なり。家屋といえどもまた剽窃なり。と彼等の嶄斬新ならんとして嶄新なるあたわざるを諷するに似たり。暗示の漸次なるを著書の上に道破せるに過ぎず。芸術評論家の語に曰く如何なる大芸術家も、PhidiasもMichael AngeloもRembrandtもVelasquezも、遂に全然新様なる美の理想を思念しまた表現するあたわずと、暗示の突然として天外より降下せざるをいうに過ぎず。PisistratusのAthensに王たるやSolonの法規を外形の上に維持してかつてこれを破壊することなかりき。Caesarの英邁にしてなおかつ共和政体の組織を改めず。一世の豪傑Napoleonの如きものすら、当初は革命の時代に行はれたる主義形式を蹂躙するの意なかりしに似たり。これ政治的に暗示の漸次なるを証するものなり。(文学論 第五編 第五章)






最終更新日  2021.11.19 19:00:06
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