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カテゴリ:うんちく
明治8(1875)年4月4日、木村屋のあんぱんが明治天皇へ献上されたことを記念して制定されました。 木村屋を創業したのは、常陸国牛久(現茨城県)出身の木村安兵衛で、江戸に出て紀州藩のお蔵番から維新の頃には本家筋の木村重義配下に入り、江戸市中の警備にあたり、明治に入ると、廃藩置県によって職を失った者たちに職業訓練を施す東京府授産所の事務をしていました。 文明開化のブームを受け、「木村屋」のパンは人気を呼んで、明治7(1874)年には火災防止のために建築された煉瓦街(現銀座4丁目)の一角に店舗を構え、「あんぱん」を売り出します。(その頃の店舗は、現在の本店の向かい、三越のある辺りにありました) 「あんぱん」が広く知られるようになったのは、安兵衛の古くからの友人で、明治天皇の侍従をしていた山岡鉄舟のおかげでした。勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟のひとりとして知られる鉄舟は、安兵衛の剣術仲間だったのです。 明治天皇が東京向島の水戸藩下屋敷でお花見をされた際、お茶菓子として「あんぱん」が出されました。 明治天皇と皇后は、「あんぱん」を大層気に入り、皇后陛下からは「引き続き納めるように」というお言葉を戴き、木村屋は宮中御用商となりました。 明治18(1885)年、木村屋は広目屋(現在のチンドン屋)をパンの広告に取り入れました。洋装の男性が大きな太鼓を担ぎ、太鼓を叩きながら洋装の婦人とともに街を練り歩きます。 パン、パン、パン、木村屋のパン 木村屋パンをごろうじろ 西洋仕込みの本場もの 焼きたて出来たてほくほくの 木村屋パンを召し上がれ 文明開化の味がして 寿命が伸びる初物 初物 柴田宵曲の『明治の話題』には「『新春闘話』(泉鏡花)という談話に、あご髯洋服という男が、太鼓を胸に懸けて『メリキのパンやメリキのパンと、キクライキクライキンモウキンモウ』で躍りながら売って歩くと、子供は勿論、大供までぞろぞろついて行ったとあるのは金沢の話らしいが、大分古いことであろう。明治三十年代の東京のパン売りも太鼓を叩いて来た。 パン売の太鼓も鳴らず日の永き 子規 の句によって閑静な根岸あたりにも来たことがわかる。阪井久良岐(さかいくらき・川柳作家)の書いた「三題噺」は、雑誌で失敗した木村という男が、雷様の太鼓を借りて『ソノ太鼓を叩いて木村のパン、亜米利加のパン』というのがオチになっている。このオチなども当時のパン売りが太鼓を叩いて来た事実を知らぬと、ちょっとわかりにくい」とあり、パンの広目屋はこの時代だけの風物詩だったようです。 こうした宣伝も功を奏して、木村屋の「あんぱん」は銀座名物になりました。
※ブログの3月26日「子規の愛した菓子パン」もご参照を→ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.04.04 06:11:49
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