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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2017.05.25
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カテゴリ:正岡子規

 
 正岡子規は、上京して大学予備門にに遊学すると、旧藩主久松家の育英事業「常盤会」から月7円の支給を受けていました。この育英金は、大学に入ってから10円になります。学生時代の子規が食べものに贅沢できたのは、この育英金のおかげでした。
 
 『筆まかせ』「朝大尽夕書生」(明治22)には、当時の書生気質を描写しながらも、子規も似たような生活を送っていたに近いないと思わせる部分があります。
 
 書生はこらえじょう良きものにて、湯だいなしに二週間も三週間も堪えることもあり。その代わり、金があると一時にパッと使うて余すことなし。例えば、朝は西洋料理を食い、友人に菓子を食わせ、数町さきへ俥(原文・車)で駆けつけなど、意気揚々として大尽なれども、同じ日の暮れ合いにはすでに元の書生にて、足は股より下があるくたびに見張るるというような破れ袴を着し、五年前に買うたという麦藁帽子を寒中にいただき、平気の面ですましこみいること、早変の妙手というべし。
 
 子規は、明治22(1889)年、上野の近くにある下谷に下宿しました。この下宿の近くには有名な料理店がたくさんありました。その中でも西洋料理店の「精養軒」と「青陽楼」はよく知られていました。「精養軒」は、東京築地の「精養軒ホテル」の支店で、明治9(1876)年に上野公園が開園したのを機に、不忍池を望む場所にオープンしました。「青陽楼」は、南伝馬町に明治15(1882)年に開業した西洋料理店「青陽軒」の支店として明治17(1884)年に開店し、のちに「青陽楼」と名を変えています。
 

  
 この二軒の西洋料理店が明治23(1890)年発行の『東京百事便』に書かれています。 
 
 精養軒 上野公園地内鐘撞堂の傍にあり、築地の精養軒と同店なり。紳士の来臨常に多し。近来、前の座敷を二階造に改築落成し、大にその規模を改めたり。池の端また本郷台などの眺望、殊によろし。朝食は金三十銭、午食は金五十銭、晩食 は金七十銭。もっとも料理は好みに応じて調理す。
 
 青陽軒 上野山下無極(料理店名)の側路地の内にあり、並食金二十銭、中食金三十五銭、上食金六十銭。その他菓子上等、金六銭、並等金三銭。その他好み次第なり。また池の眺望もよろし。
 
 子規は、『筆まかせ』「書生臭気、三区の比較」(明治22)に下谷の周りの料理店を紹介し、遠慮せずに来て欲しいと綴っています。
 
 我寓の南隣は新築にかかる無極庵にて、安直なる書生の懇親会の会場なり。それに接して鳥又と「青陽楼」は両天秤をかつぎ、蓬莱亭は表の船板に半可通を粋がらしむ。松源はさすが名うての料理屋、我々赤貧書生の門戸を窺ふべくもあらず。これにつづきて待合二三間ありて忍ぶ川の打ちどめに又安料理あり。橋を渡りても、牛肉屋・そばやの類軒をならぶれど、料理は鳥八十の専売に帰し、蕎麦は蓮玉を古代よりの名家とす。上野の山中には「精養軒」と八百膳ありて東西の両大関なれど、それらはいわずとも、また向い側には雁鍋、だるま汁粉を隊長として、手下は挙ぐるに遑(いとま)あらず この中にただ-間の下宿屋あるこそ不思儀なれ。かるが故に賓客を饗せんとすれば何時でも何でもある。その代りに賓客があつらえる場合にも何でも自由が聞く故、来駕の諸君子遠慮し給うな。
 
 子規は、「精養軒」と「青陽楼」のうち、「青陽楼」をよく利用していました。友人の大谷是空は『正岡子規君』で「青陽楼」にツケがきくよう通帳をつくっていたことを紹介し、その支払い金額の多さに驚いたと書いています。
 
 そうした西洋料理店通いの成果のためか、子規は『筆まかせ』で「バタを喰ふ法」(明治22)を披露しています。
 
 西洋料理店へ行き「バタ」をたくさん喰って、それでたくさんくった風を見せぬ為には、「バタ」の表面をそぐを第一とす。山の様に盛りたる「バタ」は、その山なりに表面をそぎとりて山の形を崩さぬようにし、平面に盛りたる時は平面のままに取りて、奥深く底へ縦につきこむべからず。これ我秘訣なり。

 ちよっと、セコイかな……。





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最終更新日  2017.05.25 07:23:31
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