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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2017.06.30
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カテゴリ:正岡子規

 
 平成29年6月29日の午後1時から、赤福の平居専務が子規博物館に見えられ、学芸員の方々からお話を伺う場に同席させていただきました。
 事の発端は朝日新聞の方から『大食らい子規と明治』の取材を受けた時、子規庵の理事さんから受けた質問があり、ブログに発表した内容についてお話ししたところ、貴社の方が赤福に取材したところ、急遽、赤福の専務さんが来られることになったのです。
 (赤福の句について→こちら
 
 包装紙に記載されている「到来の赤福餅や伊勢の春」が果たして正岡子規のものであるかということの真偽について確認をしたいというのが、赤福の専務の松山来訪の理由でした。
 
 赤福のホームページの「よくあるご質問と回答」には「包装紙の裏に書かれている俳句の意味を教えてください」という質問に対し、次のように書かれています。
 
 赤福の包装紙の裏に書かれている俳句は、二種類ございます。
「到来の 赤福餅や 伊勢の春」 正岡子規
 
 明治33年の春、病に臥しがちだった子規の下へ、お弟子さんが「赤福餅」を手土産にお見舞いにこられたそうです。それを見た子規は、かつて元気だった頃に伊勢に参宮したのも春であったこと、またその際立ち寄った店が「赤福」であったことを懐かしみ、伊勢の春を偲びつつこの句を詠んだと言われております。
 
「旅は春 赤福餅の 店に立つ」 高浜虚子
 昭和10年頃、虚子は私どもの店にお立ち寄りになりました。過日、病床にあった子規を伊勢の弟子が「赤福餅」を手土産に見舞われた際、子規が上記「到来の~」句を詠まれたことを懐かしみ、ありし日を偲ばれこの句を詠んだと言われております。書かれた文章「明治33年の春、病に臥しがちだった子規の下へ、お弟子さんが「赤福餅」を手土産にお見舞いにこられたそうです。それを見た子規は、かつて元気だった頃に伊勢に参宮したのも春であったこと、またその際立ち寄った店が「赤福」であったことを懐かしみ、伊勢の春を偲びつつこの句を詠んだと言われております。
 
 
 
 子規の俳句に関する記述は、赤福が株式会社になったときの初代社長・濱田ます(9代)さん書かれた『赤福のこと』という本に拠っています。
 
 先にも少しお話ししましたが、かつて神風館に徘徊を学びました父種助の影響を受け、私の夫種三も俳句をよくし、自宅で句会など開くようになりました。伊勢には神風館のあるを見ましてもわかりますように、句作をなさる方が大勢おみえになり、俳句の革新を唱え「ホトトギス」をお創りになった正岡子規の門弟山本勾玉(こうぎょく)様も、そのお一人でした。その山本さまが明治三十三年の春、すでに病の床に臥しがちであった子規先生のお宅へお見舞いに参られました折、手みやげに赤福を持って行かれましたとか。
 子規先生は「病床にあって外出もままならぬ日々を重ねるうちにいつしか春を迎えましたが、私が過ぐる年伊勢に参宮したのもちょうど今ごろでした。あの折に立ち寄った店が赤福だったのですね」と四方山のお話などなさりながら、おみやげを懐かしそうに召されて、伊勢の春を偲びつつ、
   到来の 赤福餅や 伊勢の春
 とお読みくださいました。すると、ご同席の河東碧梧桐様がその後を、
   伊勢の春 赤福餅の 店一つ
   春永く 赤福餅の 栄うらん
 と続けられたそうでございます。また、この場に居合わされた子規先生の高弟高浜虚子先生も昭和十年ごろ手前どもの店にお立ち寄り下さいまして、ありし日を偲ばれ、
   旅は春 赤福餅の 店に立つ
 と詠まれたのでございました。
 
 この文にリアリティがあることから根拠を伺いますと、赤福に伝わる「伊勢の浜荻」という冊子から取ったものではないかということでした。残念ながら、その冊子は所在不明になっていて、探しているところだといいます。また、子規の句が包装紙に記載されるようになったのは明治44年からだそうです。
  
 この文章が史実と異なるところは子規の伊勢参宮で、20歳の時、子規は四日市に訪れているのですが、当時鉄道などの交通機関が整備されていないことから、参宮は無理ではないかと思います。
 山本勾玉が子規庵を訪れたのは、4月8日の子規庵で行われた「俳句月次会」で、この日は花見で人が集まらず、子規は「句つくりに今日来ぬ人は牛島の花の茶店に餅くひ居らん」の歌を詠んでいます(明星「病牀十日)。会には、鳴球、三子、一五坊、塵外、秋竹、紅緑、子規、廉郎、紫人、耕村、潮音、芹村、道三、快山、虹原、勾玉らが集まり、碧梧桐と虚子は参加していません。(子規選書 子規の一生)
 この時に赤福を持参されたとすれば、明治33年3月24日の「日本」新聞に「餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠」の句が掲載されたあとのことになります。日本派の勾玉とすれば、「日本」に赤福にまつわる句が掲載されていたので、土産に「赤福」というのは頷ける話です。
 また、高浜虚子の句「旅は春赤福餅の門に立つ」は、昭和9年6月に詠まれ、『玉藻』に掲載されています。(定本高濱虚子全集第1巻460P・毎日新聞社)
  
 これらのことを勘案しますと、「到来の 赤福餅や 伊勢の春」は、子規の句だと研究者の間では認められていないものの、子規の句ではないと否定することができません。子規が詠んだものと認められるような文献や短冊が見つかったなら、子規のものと認定される可能性があるのです。
 明治44年から使われていたこの句が問題になることは今までもなかったことから、赤福側も驚いていると聞きました。句会などでいただいた短冊は、なくなってしまえばその存在を証明することができません。現時点で、子規の句とは確認できないのですが、新たな資料の発見が待たれるところです。
  

  
 追記/専務さんからのお土産「赤福」をいただきました。ありがとうございました。この時期の「赤福」は賞味期限が2日で、専務さんが早朝に伊勢を出る時、つくられたばかりのものを持ってきてくださったのでした。
 私ごとになりますが、一昨日に愛犬が亡くなりました。うちの家族共々この犬も「赤福」のファンでした。早速、いただいた「赤福」を愛犬の亡骸に供えました。本日の火葬の際にも、「赤福」を添えてやろうと思います。






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最終更新日  2017.09.02 07:56:16
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