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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2017.08.04
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カテゴリ:正岡子規


 
 先般、上京した折、根岸の子規庵を訪ねました。拙著『大食らい子規と明治』を置いていただいているので、そのお礼を込めて伺ったのです。売り場の方に売れ行きを尋ねると「ぼちぼちですなぁ」ということでしたが、あとで版元のアトラス出版に聞くと追加注文をしていただいたとのこと。僕が子規庵を訪ねる前に注文があったそうです。僕の本は、愛媛県内ならある程度の書店で手に入りますが、他の地域の方はネットを利用するか(他にもたくさんの本を出しています)、東京の方ならば『大食らい子規と明治』だけは、子規庵でご購入していただければと思います。
 
 さて、子規庵ですが、子規の部屋の前には日よけのための糸瓜棚があり、今も大きな糸瓜がぶら下がっていました。以下に紹介する句は、子規庵の部屋から見た糸瓜棚の様子です。
 
   棚ノ絲瓜思フ處ヘブラ下ル(明治34)
   西ヘマハル秋ノ日影ヤ絲瓜棚(明治34)
   病間ニ絲瓜ノ句ナド作リケル(明治34)
   病閑ニ絲瓜ノ花ノ落ツル晝(明治34)
   牡丹ニモ死ナズ瓜ニモ絲瓜ニモ(明治34)
   夕顔ノ棚に絲瓜モ下リケリ(明治34)
 

 
 子規と糸瓜が結びつくのは、「絶筆三句」と呼ばれる、糸瓜の句のためです。
 明治35(1902)年9月19日の午前1時に子規は亡くなったのですが、その前日に容態が悪化しました。宮本仲医師が駆けつけ、陸羯南、河東碧梧桐、高浜虚子が駆けつけます。午前11時頃、子規は律と碧梧桐の介添えで、画板に貼りつけた紙に句を書きました。中央に「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」と筆をふるい、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰を取った後に、左へ「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」と入れ、それから「をととひのへちまの水も取らざりき」と筆を入れると、眠りにつきました。子規が最後につくったこの三句が「絶筆三句」と呼ばれています。
 午後5時半頃、目覚めた子規は痛みを覚えるので、胸に注射をします。その後、子規が熟睡したため、母・八重は子規の床に残りました。
 時計が1時をさす頃、子規があまり静かなので、八重は手をとって「のぼさん、のぼさん」と子規の名を呼びましたが、返事がありません。子規の手はすでに冷えきっていました。八重が目を離した隙に、子規は息絶えていたのでした。
 蒲団からはみ出した脚と傾いた身体をきちんと直そうとした時、八重は子規の遺体を抱いて「サア、もう一遍痛いというておみ」と強い声で叫んだといいます。
 
 病床の居士を覗いてみるとよく眠っていた。
「さあ清さんお休みください。また代わってもらいますから」と母堂がいわれた。母堂は少し前まで臥せって入られたのであった。そこで今まで起きていた妹君も次の間に休まれることになったので、余も座敷の床の中に入った。
 眠ったか眠らぬかと思ううちに、
「清(きよ)さん清さん」という声が聞こえた。その声は狼狽した声であった。余が蹶起(けっき)して病床に行く時に妹君も次の間から出て来られた。
 その時母堂が何と言われたかは記憶していない。けれどもこういう意味のことを言われた。居士の枕頭に鷹見氏の夫人と二人で話しながら夜伽をしておられたのだが、あまり静かなので、ふと気がついて覗いてみると、もう呼吸はなかったというのであった。
 妹君は泣きながら「兄さん兄さん」と呼ばれたが返事がなかった。跣足(はだし)のままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。(高浜虚子 子規居士と余)
 
 十八日の午後五時頃、苦痛を訴えられるので医師が注射をしたのであったが、その後は昨日にかわらず昏睡されて、夜の十一時過ぎにもなったから、皆々替りあって夜伽をしようと、床に入った者もあったが、やはり昏睡の状で別に異状もない。大方このままで今夜もあけるのであろうと安心しておったところ、一時頃になってあまり静かだからどうしたのであろうと、一二度名を呼んでみたが返辞がない。そこで額へ手をあててみたら冷たくなっておられたので、これはこれはと大騒ぎになった。(河東碧梧桐 糸瓜の辞世)
 
 子規かかりつけの医師・宮本仲は、『私の観た子規』で、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」という句は、前年か前々年にできていたと書いています。八月十五日の夜に採った糸瓜の水は、痰の薬になるといわれていて、その日往診に行けなかった宮本のために、「薬になる糸瓜水の効果がさっぱりなくなってしまった」という意味を込めたのだというのです。
 
 糸瓜は、実が若い時期には煮物などの料理にできますが、成長すると繊維が強くなって食べられなくなってしまいます。江戸時代の百科事典『本朝食鑑』に、糸瓜は「風毒を去り、毒を解し、腫れを消し、痰を化し、痛みを除き、虫を殺す。及び諸血病を治す」とあり、万病に効くと書かれています。
 そのためか、万病封じの祈願には糸瓜が使われることもあり、糸瓜やキュウリなどに名前や数え年、病名等を書いて祈祷し、祈祷していただいた糸瓜は家に持ち帰り、庭や鉢に生けると病気が治るとされています。
 
 各地では、万病封じの祈願「糸瓜封じ」が行われます。これは毎年、十五夜の日に行われ、糸瓜に名前や数え年、病名などを書いて祈祷してもらいます。祈祷した糸瓜を家に持ち帰り、庭や鉢に生けると病気が治るというのです。
 東京では、旧暦8月1日に両国大徳寺で「糸瓜加持」が行われます。
 若月紫蘭著『東京年中行事』には、「本所元町の回向院の右隣の大徳院に、糸瓜加持という一種変わった行事がある。付近には猫実(ねこざね)あたりの兄可(おあにぃ)たちがずらりと陣取って、一本三百に負(まか)った負ったとわめき立てて花落ち糸瓜を売る。寺の門の貼札には午前四時より午後三時限りとあれど、もうその以前からぞろぞろと詰めかける善男善女で境内はひしめき合い、白髪の婆さん、二百三高地の大庇髪までが、手ん手に糸瓜をぶら下げて、南無阿弥陀南無阿弥陀と唱えながら、本堂の脇に設けられた事務所に至って、門前で買った糸瓜に対して、名前と順番を書いた紙切れを貰って下足を頼んで本堂に上って、本尊薬師如来像の前に糸瓜を供え、しばらく御加持をして貰った後にて、件(くだん)の糸瓜如来を押し頂いてブラブラと自分の家へ持ち帰り、仏壇に放置して、今度は病気が治りますようにと、祈願をこめた後、こっそりとひと知れず、その糸瓜様を川へ流し奉るのである。さてもどうした因縁があってのことかと坊さんに問えば、わずか二十年ばかり前のこと(明治30年頃)、芝のさる信徒の望みにまかせて糸瓜加持を行ったところが、いやちこなるご利益たちどころに現れたので、ところによると『拙者何病のところ以後毫も関係これなし」なんという証文めいたものを糸瓜に貼りつけて流すところもあるとやら」と書かれています。
 
 また、茎を切って集めた糸瓜水は、「美人水」とも呼ばれ、今でも化粧水として使われています。また、咳止めや痰をきる薬としても重宝されました。
 
 漱石は「糸瓜先生」という雅号を持っていました。しかし、子規が辞世の句で糸瓜を詠んだことから、子規の命日を「糸瓜忌」、子規を「糸瓜仏」ということから、この雅号はいつのまにか消えてしまったようです。「漱石」の号も、もともとは子規のものだったといわれますが、子規は雅号マニアで、百以上の名を持っていたといいますから、重複するのもやむを得ないことかもしれません。
 
   秋に形あらば絲瓜に似たるべし(明治24)
   しばらくは風のもつるゝ絲瓜かな(明治24)
   秋のいろあかきへちまを畫にかゝむ(明治30)





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最終更新日  2017.08.04 06:43:27
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