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カテゴリ:夏目漱石
夏目漱石の小説には、チョコレートが多く登場します。 『虞美人草』と『こころ』にはチョコレートを塗ったカステラが登場します。 「ハハハハ面白いことがあるんだよ。糸公……」といい掛けた時紅茶と西洋菓子が来る。 「いやあ亡国の菓子が来た」 「亡国の菓子とは何だい」と甲野さんは茶碗を引き寄せる。 「亡国の菓子さハハハハ。糸公知ってるだろう亡国の菓子の由緒(いわれ)を」と云いながら角砂糖を茶碗の中へ抛(ほう)り込む。蟹(かに)の眼のような泡が幽(かす)かな音を立てて浮き上がる。 「そんな事知らないわ」と糸子は匙でぐるぐる攪(か)き廻している。 「そら阿爺(おとっさん)がいったじゃないか。書生が西洋菓子なんぞを食うようじゃ日本も駄目だって」 「ホホホホそんな事をおっしゃるもんですか」 「いわない? 御前よっぽど物覚がわるいね。そらこの間甲野さんや何かと晩飯を食った時、そういったじゃないか」 「そうじゃないわ。書生の癖に西洋菓子なんぞ食うのはのらくらものだっておっしゃったんでしょう」 「はああ、そうか。亡国の菓子じゃなかったかね。とにかく阿爺は西洋菓子が嫌だよ。柿羊羹か味噌松風、妙なものばかり珍重したがる。藤尾さんのようなハイカラの傍へ持って行くとすぐ軽蔑されてしまう」 「そう阿爺の悪口をおっしゃらなくってもいいわ。兄さんだって、もう書生じゃないから西洋菓子を食べたって大丈夫ですよ」 「もう叱られる気遣はないか。それじゃ一つやるかな。糸公も一つ御上り。どうだい藤尾さん一つ。――しかしなんだね。阿爺のような人はこれから日本にだんだん少なくなるね。惜しいもんだ」とチョコレートを塗った卵糖(カステラ)を口いっぱいに頬張る。(虞美人草 11) 私はその翌日午飯を食いに学校から帰ってきて、昨夜(ゆうべ)机の上に載せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った鳶色(とびいろ)のカステラを出して頬張った。そうしてそれを食う時に、必竟(ひっきょう)この菓子を私にくれた二人の男女(なんにょ)は、幸福な一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。(こころ) 鳶色のチョコレートがコーティングされたカステラには、異国の趣があり、別の形の幸せを表現しているようです。そして、チョコレートは「鳶色」です。「鳶色」とは、鳶の羽の色のことで、赤みのある茶色です。漱石は『思い出す事など』では薬の色、『永日小品』の「暖かい夢」では、ロンドンの空の色として「鳶色」を使っています。 薬液を皿に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針を丁寧に拭ぬぐったり、針の先に泡のように細い薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだ物奇麗で心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体その鳶色の液は何だと聞いた。森成さんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。(思い出す事など 26) 自分はのそのそ歩きながら、何となくこの都にいづらい感じがした。上を見ると、大きな空は、いつの世からか、仕切られて、切岸のごとく聳える左右の棟に余された細い帯だけが東から西へかけて長く渡っている。その帯の色は朝から鼠色であるが、しだいしだいに鳶色に変じて来た。建物は固もとより灰色である。それが暖かい日の光に倦み果てたように、遠慮なく両側を塞いでいる。広い土地を狭苦しい谷底の日影にして、高い太陽が届くことのできないように、二階の上に三階を重ねて、三階の上に四階を積んでしまった。(永日小品 暖かい夢) チョコレートそのものも『それから』では飲み物として、『行人』には銀紙に包まれたチョコレートとして登場します。 「誠太郎、チョコレートを飲むかい」と聞いた。 「飲む」 代助はチョコレートを二杯命じて置いて誠太郎に調戯(からかい)だした。 「誠太郎、御前はベースボールばかり遣るもんだから、この頃手が大変大きくなったよ。頭より手の方が大きいよ」 誠太郎はにこにこして、右の手で、円い頭をぐるぐる撫でた。実際大きな手を持っている。 「叔父さんは、昨日御父さんから奢って貰ったんですってね」 「ああ、御馳走になったよ。御蔭で今日は腹具合が悪くって不可ない」 「又神経だ」 「神経じゃない本当だよ。全たく兄さんの所為(せい)だ」 「だって御父さんはそう云ってましたよ」 「何て」 「明日学校の帰りに代助の所へ廻って何か御馳走して貰えって」 「へええ、昨日の御礼にかい」 「ええ、今日は己が奢ったから、明日は向うの番だって」 「それで、わざわざ遣って来たのかい」 「ええ」 「兄(あにき)の子だけあって、中々抜けないな。だから今チョコレートを飲まして遣るから好いじゃないか」 「チョコレートなんぞ」 「飲まないかい」 「飲む事は飲むけれども」(それから 6) 舞楽が一段落ついた時に、御茶を上げますと誰かが云ったので周囲の人は席を立って別室に動き始めた。そこへ先刻(さっき)三沢と約束の整ったという女の兄さんが来て、物馴(ものな)れた口調で彼と話した。彼はこういう方面に関係のある男と見えて、当日案内を受けた誰彼をよく知っていた。三沢と自分はこの人から今までそこいらにいた華族や高官や名士の名を教えて貰った。 別室には珈琲(コーヒー)とカステラとチョコレートとサンドイッチがあった。普通の会の時のように、無作法なふるまいは見受けられなかったけれども、それでも多少込み合うので、女は坐ったなり席を立たないのがあった。三沢と彼の知人は、菓子と珈琲を盆の上に載せて、わざわざ二人の御嬢さんの所へ持って行った。自分はチョコレートの銀紙を剥しながら、敷居の上に立って、遠くからその様子を偸むように眺めていた。 三沢の細君になるべき人は御辞義をして、珈琲茶碗だけを取ったが、菓子には手を触れなかった。いわゆる「もう一人の女」はその珈琲茶碗にさえ容易(たやす)く手を出さなかった。三沢は盆を持ったまま、引く事もできず進む事もできない態度で立っていた。女の顔が先刻見た時よりも子供子供した苦痛の表情に充ちていた。(行人 塵労19) こうして首筋ばかり眺めていた自分は今比較的自由な場所に立って、彼らの顔立を筋違(すじかい)に見始めた。あるいは正面に動く機会が来るかも知れないと思った時、自分はチョコレートを頬張りながら、暗にその瞬間を捉える注意を怠らなかった。けれどもその女も三沢の意中の人も、ついにこっちを向かなかった。自分はただ彼らの容貌を三分の二だけ側面から遠くに望んだ。(行人 塵労20) チョコレートがヨーロッパにもたらされたのは大航海時代です。アメリカ大陸を発見したコロンブスは、のちに中央アメリカでマヤ人と交易し、カカオ豆を手に入れています。また、コルテスはアステカ(現メキシコ)でチョコレートに出会い、詳細な記述を残していますが、チョコレートは強壮飲料として捉えられていました。 16世紀、チョコレートはスペインの宮廷で人気を呼び、フランスへ渡って王女マリア・テレサの大好物となります。これらは飲料として嗜まれていたのですが、1828年、オランダ人ヴァン・ホーテンがチョコレートから脂肪分を分離させ、ココアを発明します。1847年、イギリスのフライ社がカカオペーストにココアバターと砂糖を混ぜて板チョコをつくりました。 日本では、長崎丸山の遊女がオランダ人からもらったという記憶や支倉常長がヨーロッパに渡った時にチョコレートを味わったという説もありますが、明治6(1873)年の岩倉具視らの欧米視察の折に、フランスのチョコレート工場を訪ねています。日本で初めてチョコレートをつくったのは東京両国の米津風月堂で、明治32(1899)年には森永商店がチョコレートクリームを発売し、それに続いて他のところからも発売されます。日本製の板チョコが登場するのは明治42(1909)年になります。
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画像掲載しました。 もしよろしかったらaccessしてみてください。 (2021.11.08 10:25:57) |