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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2017.10.22
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カテゴリ:正岡子規

 
   たなびくは芋屋の煙后の月(明治24)
   北風や芋屋の煙なびきあへず(明治25)
   冬籠りほつほつかぢる芋の皮(明治25)
   燒芋をくひくひ千鳥きく夜哉(明治25)
   焼芋のさかり過たる二月哉(明治26)
   やき芋の行燈あつし夏氷(明治26)
   梅咲て焼芋の煙細りけり(明治27)
   やき芋の皮をふるひし毛布哉(明治33)
 
 明治24(1891)年12月、子規は、かねてより構想していた小説『月の都』を完成させるために本郷区駒込追分町の一軒家に移リました。子規は「来客を謝絶す」の張り紙をして人を遠ざけ、小説執筆に力を尽くしました。
 高浜虚子に宛てた明治25(1892)年1月25日の手紙には「大方荒壁までは仕あげ」とあり、2月19日の河東碧梧桐宛ての手紙に、その内容を記していることから、ほぼ小説はできあがっていたようです。そののち、子規は陸羯南宅の西隣、根岸町八十八番地に家を移します。
 子規は同年齢の幸田露伴が著した『風流仏』に心酔していました。子規は「『風流仏』は小説の最も高尚なるものである。もし小説を書くならば『風流仏』の如く書かねばならぬ」と『天王寺畔の蝸牛廬』に書いており、『月の都』は露伴の影響下にありました。
 ようやく完成した『月の都』を持って、この年の2月下旬に子規は露伴を訪ねました。家に帰ると、河東碧梧桐の兄・竹村黄塔がやって来ていたので、ふたりで焼き芋を齧っています。
 子規は、河東碧梧桐と高浜虚子に宛てた3月1日の手紙に「拙著はまず、世に出る事なかるべし」と書き綴っています。一方、夏目漱石には、「露伴が川上眉山、 厳谷小波の比で無い」と言ったと強がりました。3月10日の碧梧桐に宛てた手紙には、「露伴僕の小説を評して曰く覇気強しと、また曰く覇気は強きを嫌わず……君の覇気に富むこと実に僕より甚だしきものあり」と露伴が子規の覇気を評価したことを伝えていますが、小説には触れていないことから、子規の無鉄砲さのみを評価したともとれます。
 また、5月4日の虚子宛ての手紙には「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」と告げています。小説の出版が難しいことを予感していた子規でしたが、『月の都』の活字化は、明治27年に子規が編集長になった折の「小日本」に掲載されました。
 露伴との会談のあと、黄塔とともに食べた焼き芋は、世間を甘く見た味だったのでしょうか。それとも、皮の焦げた苦い味がしたのでしょうか。
 

 
 拙著小説は「月の都」と題して紙数(写本)六十枚十二回の短編なり。しかして末二回は大方謡曲にてつづまりおり候。これら第一世人には気に入らざるべしと存じおり候なり。(明治25年2月19日の河東碧梧桐宛ての手紙)
 
 先刻相出し候。端書大方御らん被下候ことと奉存候。小生昨日移転之際脳痛烈しく起り候処今朝に至てもやまず。手紙数通認めおわりて蝉丸の謡曲一番を無声にて大喝致候処やや平癒之気味あり(尤今日は学校は休み)午餐後手紙出しかたがた新寓(一町行けば谷中の墓地也)を出て幸田露伴を谷中に訪う。閑談三時間余胸襟酒落光風霽月の天を現わし脳痛全く癒ゆ。帰れば則竹村兄のおとない給うあり延て茶室に入り焼芋を喰う、兄帰られて後この手紙をしたたむ時にまた脳巓岑々たるを覚ゆ。
 小生露伴を訪うこと己に二度なり。数日前拙著月の都を袖にして同氏を訪う。生日く僕拙著一巻あり。友人皆出板を勧む。僕これに応ぜんと欲す。而して拙著中の趣向君の著述中より偸み来るもの多し故に一応君の承諾を経、かつ批評を乞う云々。露伴云々の挨拶あり。談話二十分余。傍に客あるを以て談佳興に入らずして帰る、翌日約あり。同家を訪う。在らずその翌日露伴使を以て拙著を返し来る。且つ一蓄を添へて多少の許あり。然れども盡さず生乃ち今日之を訪う所以なり。相逢うて談じ去り、談じ来り、快窮まって帰らんと欲す。事半は小説上なり。……貴兄等これを読んで何とか想像し給う。彼一句吾一句、相笑い、相怒り、負けず劣らず、口角の沫を闘わせしものとや思い給うらん。その実、談じ去り、談じ来るものは終始彼也。黙々また唯々たるものは終始我也。(評曰回也愚)生は多少小説家の骨を得たり(内は未だし)きと思うなり。それ生がかつて聞かんと欲せし処、而して今に於て頓に悟る所あり。それ生がいつか貴兄等に話せんと欲する所而して筆紙これを盡さず、山河之を阻断す(今年夏も帰省せんと欲すれども生とinitialを同ふするM君のために志を果すを得ざるべし)生十五六歳の時郷に在り、大言して曰く、枳棘は鸞鳳の栖む処に非ず海南は英雄の止まる処に非ずと。而して東京に来て後前言の是なるを知る。然れども今の海南は昔日の海南に非ず。今日の時勢は昔日の時勢に非ず。貴兄らをおだてるには非。
 近者露伴子と俳譜を闘わすの約あり、俳況は後便に報ずべし。尤も同子も俳諧はさほどの玄人に非ず。露伴閑栖。
   鶯の奥に家あり梅の花
 壬辰三月一日夜九時根岸僑居にて
   虚子兄
   青桐兄
 拙著はまず。世に出る事。なかるべし
(以上の一行覚えず俳伺の調をなす呵々)(明治25年3月10日の河東碧梧桐宛ての手紙)
 
 玉章拝読致侯十二ヶ月の趣向に付御叱責を受け恐入候。是等はもとより俳句を以て翫弄物と致候段、蕉翁に対してもはた貴兄に対してもいいわけは無之候。貴兄のいわるる所もとより道理の本筋に御座候。併し強て難をいえば貴兄やや一を知てニを知らざる所あり。若し賞兄の論を演託せば課題を設けて俳句を思考するは勿論わるく、また郊外に杖を曳て俳句を尋ぬるもまた俳諧の罪人なりといわざるべからず(そうまではいい給ふまじけれど)。ここ等はまづいい加減にして置て人々の得意々々あるべし。
○露伴、僕の小説を評して曰く覇気強しとまた曰く覇気は強きを嫌わず、僕の風流仏の如きも当時は後篇を書かんと楽しみおりしに今はいやになりたり云々と。それ然り故に僕の見る所を以てすれば、彼の書中風流仏の如く面白きものあらざるなり。而して君の覇気に富むこと実に僕より甚だしきものあり。僕またいう、覇気強からざるべからず、覇気強き時は目的もまた大なり。目的は如何に大なりとも段々に小になるの傾きあり故に目的は大ならざるべからず。また覇気は強からざるべからず。君の目的あたかも秦の始皇の意気ごみの如し。故に令兄竹村君の如きは屢々君の思想の漠然として取締りなきを歎ぜらるれども、僕はかつてその放縦にして緊束せられ給はざるを喜ぶ。……(明治25年3月1日の河東碧梧桐宛ての手紙)
 
 それからその『月の都』を露伴に見せたら、眉山、漣の比で無いと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、その時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた。あの時分から正岡には何時もごまかされていた。発句も近来漸く悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻りに僕に発句を作れと強いる。其家の向うに笹藪がある。あれを句にするのだ、ええかとか何とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極めている。まあ子分のように人を扱うのだなあ。(夏目漱石 正岡子規)
 
 子規は、明治20年に『竜門』、23年に『銀世界』『山吹の一枝』(未完・新海非風との共作)を書いて手慣らしを終え、25年に『月の都』で本格的な小説に着手、27年に『一日物語』『当世媛鏡』、30年に『月見草』(未完)『花枕』『曼珠沙華』、33年に『我が病』(未完)の10編の小説と、翻訳『レ・ミゼラブル』(脱稿 不明)1編を書いています。
 明治25年5月、子規は虚子あての書簡に「僕は小説家となることを欲せず詩人と並んことを欲す」と書きましたが、小説家への道を断つことなく続けていました。明治27年2月、「小日本」が創刊されると、『月の都』を大幅に改稿して十三回にわたり掲載しました。しかし、子規の本領は小説よりも随筆にあり、リアルさに欠ける小説よりも、実生活を描写した随筆の方が生き生きとした文章になっています。
 
 子規は焼き芋をよく食べています。『筆まかせ』には「誰かが発議して何かを買いに行こうと、ジャンケンか、もしくはトランプでもって勝敗を決し、焼き芋、菓子を買いに行くことがしばしばあった(『筆まかせ』「over-fence」)」、「二銭の焼き芋をわが帽子に入れ、外に出ると、雨はたちまち晴れて日光、顔に射る(「筆頭狩」)」などの文章が残されています。
 高級品の砂糖を使った菓子は、高価でなかなか手が出ないこの時代、温かい上に甘くて安い焼き芋は、東京の庶民や書生たちにとって冬のおやつの代表格でもありました。
 小菅桂子著『近代日本食文化年表』には、明治33(1900) 年「東京府下の焼芋屋一四〇六軒を数える」とあり、竈(へっつい)さえあればできる焼芋屋を始める人も多かったようです。寒いときの商売なので、気候が暑くなれば、焼芋屋は氷店に変わります。
 
判事「東京へ出たのはいつのことだ」
被告「明治十六年でございます」
判事「その後健康の有様はどうだ」
被告「出京後は誰も制限する者がありませぬから むやみに買い喰をしてますます胃をわるくしました 毎日毎日何か菓子を喰わぬと気がすまぬようになりますし おいおい胃量も増してきまして六銭の煎餅や十箇の柿や八杯の鍋焼饂飩などはつづけさまにチョロチョロとやらかます しかし一番うまいのは寒風肌を裂くの夜に湯屋へ行きて帰りがけに焼芋を袂と懐にみてて帰り蒲団の中へねころんで ようやく住境に入るとか 十年の宰相を領取すとかいっているほど愉快なことはありません イヤ思い出しても……」(啼血始末)
 
 余、学校の寄宿舎にありし日、夕飯を四時半に食い終りストーヴを取り巻きて話をしている内、話もつきてさみしくなれば誰かゞ発議して何かを買いに行かんとてジャン、ケンか若しくはトランプを以って勝敗を決し、焼芋、菓子を買ひに行くこと屢ありき。後には賄方をたのみて使賃に二銭を費すことありしが、悪心追々に増長し、いつとはなしにover-fenceなる語出来て、闕隙をくゞり門墻を超ゆること流行するに至りたり。されど盗みをする程の勇無もなく、廓へくりこむ程の黄金もなし。ただ蕎妻、汁粉を喰いに行くとか、時には用事のあって出ることもあり、余程思いきった処で寄席に行く位なりき。ある日の事なりき。寒風指を落す程に寒く身体も縮まりて動く能わざる程の夜に、同宿生数人と二重の柵をなんなくこえて表に山づれば、はや夜は三更に近く家々の窓に光りなく、只犬の声わんわんと遠方に聞ゆ。それより一町許り行きて、小川町の勧工揚の裏手に至れば、折もよし鍋焼き饂飩にあひたれば天の与へと喜びて、二三杯宛の饂飩をふきながらフーッツルツルフーッツルツルザブザブとくひ終りて、あゝうまし、あゝさむしといひながら、小川町にいずれば店は皆戸をおろし。ただ蕎婆屋のあんどんのみ、あかりつ消えつ客を待ち㒵なり。いでや一杯を傾けんと、そばやへはいり又もや二椀を喫し帰途につきたり。少し行きたる折から後よりオゝイオゝイと呼ぶ声は熊谷衣郎直実ならねど、これに劣らぬ勇士の一人我同伴の菊池仙湖なり。何事にやと立ちどまれば仙湖ハ大福餅をかゝへながらはや一ッを頬張りたり。敵に後を見せるも残念と張り裂ける腹をかゝへて又もや大福餅に頬を焼き腹をあたゝめ、舎に帰りて打ち臥せしこそ知何に倫快なりしか筆にも盡されぬべし。後に此ぬけがけの功名を聞きて尤も羨みしは佐々田氏なりき(筆まかせ over-fence)
 
 雨の晴れ間をうかがいてここを立ちいで、人力車に乗らんという鉄山をすかしてあるくことと定め、しょぼふる春雨にそぽちながら帰途に就く。西ケ原のほとりにて衆議一決し。一ばんを購わんとて芋屋へ立ちより、二銭の焼芋をわが帽子に入れ外へいづれば 雨はたちまち晴れて日光、顔に射る。(筆まかせ 筆頭狩)





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最終更新日  2017.10.22 06:26:20
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