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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2017.10.27
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カテゴリ:夏目漱石

 
 明治40年2月、漱石は朝日新聞社の専属作家となりました。その年の3月28日より15日間、糺の森にあった京都帝国大学文科大学学長・狩野亨吉の家に仮寓し、京都を見て回ります。学生時代に子規とともに訪れて以来、2度目の京都でした。4月9日、漱石は亨吉と菅虎雄とともに比叡山に登理、漱石の日記には「十一屋。平八茶屋。高野村に行く途中山端にあり。御前川上、わしゃ川下で…」とあります。
 平八茶屋は、安土桃山時代(天正年間)に若狭街道の街道茶屋として創業したといい、江戸前期には「萬屋平八」として営業。茶屋から料理屋の形態となり、明治時代には川魚専門の料理屋となりました。
 翌日10日には高浜虚子と平八茶屋を訪れ、昼飯に川魚を食べています。日記には「平八茶屋(雨を衝いて虚子と車をかる。渓流、山、鯉の羹、鰻、)」とあり、その後、漱石は虚子の泊まっている三条小橋の宿「万屋」に入って風呂に入り、都おどりを訪れて、祇園の一力亭で遊びました。
 そのときの様子を虚子は『漱石氏と私』に描写しています。
 

  
 漱石氏は一人つくねんと六畳の座敷の机の前に坐っていた。第三高等学校の校長である主人公も、折ふしこの家に逗留しつつある菅虎雄氏も皆外出中であって、自分一人家に残っているのであると漱石氏は話した。この漱石氏の京都滞在は、朝日新聞入社の事に関連してであって、氏の腹中にはその後『朝日新聞』紙上に連載した「虞美人草」の稿案が組み立てられつつあったのであった。
「何処かへ遊びに行きましたか。」と私は尋ねた。
「狩野と菅と三人で叡山へ登った事と菅の案内で相国寺や妙心寺や天竜寺などを観に行ったくらいのものです」と氏は答えた。
「お寺ばかりですね」
 そういって私が笑うと氏もフフフンと笑って、
「菅の案内だもの」と答えた。
 ともかく何処かで午飯を食おうという事になって、私は山端の平八茶屋に氏を誘い出した。春雨の平八茶屋は我らの外に一人の客もなくって静かさを通り越してむしろ淋しかった。四月発行の『ホトトギス』の話になった時、氏は私の『風流懺法(ふうりゅうせんぽう)』を推賞して、こういう短篇を沢山書いたらよかろうといった。私は一月前、斎藤知白(さいとうちはく)君と叡山に遊び、叡山を下りてから、一足さき京都に来ていた知白君と一緒に一力に舞子(妓)の舞を観て『風流懺法』を書いたのであったが、今度の旅行は奈良の法隆寺に遊ぶ積りで出掛けてきたのである。漱石氏に逢った上は今夕にも奈良の方へ出掛ける積りであったのであるが、漱石氏が折角京都に滞在していて寺ばかり歩いていると聞いた時、私は今夜せめて都踊だけにでも氏を引っぱって行こうと思い立った。
「京都へ来てお寺ばかり歩いていても仕方がないでしょう。今夜都踊でも観に行きましょうか。」と私は言った。
「行って観ましょう」と漱石氏は無造作に答えた。その時の様子が、今日一日は私のする通りになるといったような、極めてすなおな、何事も打まかせたような態度であった。
「それではともかくもこれから私の宿まで行きませんか」と言って私は氏を私の宿に引っぱって帰った。
 宿屋に這入った後漱石氏は不思議な様子を私に見せた。狩野氏の家を出てから山端の平八茶屋で午飯を食うて此の宿の門前に来るまでは如何にも柔順(すなお)な子供らしい態度の漱石氏であったが、一度宿屋の門をくぐって女中たちが我らを出迎えてからは、たちまち奇矯(ききょう)な漱石氏に変ってしまった。万屋は固(もと)より第一流の宿屋ではない。また三流四流に下る宿屋でもない。私たちは何の考慮を煩わす事もなしに、ただ自分の家の門をくぐるのと同じような気軽い心持で出入する程度の宿屋であったのだが、漱石氏の神経はこの宿の閾(しきい)をまたぐと同時に異常に昂奮した。まず女中が挨拶をするのに対して冷眼に一瞥(いちべつ)をくれたままで、黙って返事をしなかった。そうしてしばらくしてから、「姉さんの眼は妙な恰好の眼だね」と言って、如何にもその女を憎悪するような顔付をしていた。平凡なおとなしいその京都の女は、温色(おんしょく)を包んで伏目になって引き下がった。やがて湯に這入らぬかと言って今度は別の女中が顔を出した。これはお重という女中頭をしている気の勝った女であった。
「一緒に這入りませんか。」と私が勧めたら、氏は、「這入りましょう」と言って逆らわなかった。が、その時投げ出していた足をお重の鼻先に突き出して黙ってお重を瞰(ね)めつけていた。お重は顔を赤くして、口を堅く引き緊(し)めて、じっとそれを見ていたが漸く怒を圧(おさ)え得たらしい様子で、「足袋をお脱がせ申すのどすか」と言って両手を掛けてこはぜを外しかけた。その足袋の雲斎底には黒く脂が滲み出していて、紺には白く埃がかかっていた。片方の足袋を脱がし終ると更らに此方の足を突き出した。それもお重は隠忍して脱がせた。私は何のために漱石氏がそんな事をするのかと、ただ可笑しく思いながら、その光景(ありさま)を眺めて居た。が、も少し宿が威張った宿であるとか、女中が素的な美人であるとかしたならば、この舞台も映えるかも知れないけれども、そんなに漱石氏が芝居をするほどの舞台でもあるまいというような少し厭な心持もせぬではなかった。私は氏を促し立てて湯殿に這入った。(高浜虚子 漱石氏と私)
 
 漱石は、平八茶屋を『虞美人草』の冒頭に登場させています。比叡山へ向かう宗近と甲野は比叡山へ向かいますが、4月9日に体験した狩野亨吉と菅虎雄と一緒の道行が、参考になったのでしょう。
 平八茶屋での体験は『門』に書かれています。「不味い河魚の串」とありますが、もとより脂っこい料理が好きな漱石には、淡白な川魚の味が気にいらなかったのでしょう。
 
 先月、京都に行った時に叡電の修学院駅の近くにある平八茶屋の前を通りました。高級車が出てくるのを仲居さんが見送っていました。一人で訪れるようなところではありませんので、僕はその様子をただ見ていただけでした。駅の近くのスーパーに、赤く色づいた満願寺唐辛子のいっぱい入った箱が400円ほどで売っていたので、買おうかどうしようか迷ったのですが、量が多すぎて買うまでには至りませんでした。
 
「随分遠いね。元来どこから登るのだ」
と一人が手巾(ハンケチ)で額を拭きながら立ち留どまった。
「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯も四角に出来上った男が無雑作に答えた。
 反(そり)を打った中折れの茶の廂(ひさし)の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫(かすか)なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺(うご)くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然として、どうする気かといわぬばかりに叡山が聳えている。
「恐ろしい頑固な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖に身を倚せていたが、
「あんなに見えるんだから、訳はない」と今度は叡山を軽蔑したようなことをいう。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計なことをいわずに歩行いていれば自然と山の上へ出るさ」
 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを煽いでいる。日頃からなる廂に遮さえぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き額だけは目立って蒼白い。
「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」
 相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に曝さらして、粘り着いた黒髪の、逆さかに飛ばぬを恨むごとくに、手巾を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、頸窩(ぼんのくぼ)の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに掻き廻した。促されたことには頓着する気色もなく、
「君はあの山を頑固だといったね」と聞く。
「うむ、動かばこそと云ったような按排じゃないか。こういう風に」と四角な肩をいとど四角にして、空いた方の手に栄螺(さざえ)の親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。
「動かばこそというのは、動けるのに動かない時のことをいうのだろう」と細長い眼の角かどから斜に相手を見下した。
「そうさ」
「あの山は動けるかい」
「アハハハまた始まった。君は余計なことをいいに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の洋杖ステッキを、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや否や、歩行き出した。瘠せた男も手巾ハンケチを袂に収めて歩行き出す。
「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端になるばかりだ。元来頂上まで何里あるのかい」
「頂上まで一里半だ」
「どこから」
「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」
 瘠やせた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく喋舌しゃべり続ける。(虞美人草 1)
 
 京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜であった。彼は安井の案内で新らしい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ。二人は毎晩のように三条とか四条とかいう賑やかな町を歩いた。時によると京極も通り抜けた。橋の真中に立って鴨川かもがわの水を眺めた。東山の上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。町や人に厭(あ)きたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。宗助は至る所の大竹藪に緑の籠こもる深い姿を喜んだ。松の幹の染めたように赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風情を楽しんだ。ある時は大悲閣へ登って、即非(そくひ)の額の下に仰向きながら、谷底の流を下る櫓の音を聞いた。その音が雁の鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。ある時は、平八茶屋まで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。そうして不味い河魚の串に刺したのを、かみさんに焼かして酒を呑んだ。そのかみさんは、手拭を被って、紺の立付みたようなものを穿いていた。(門14)





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最終更新日  2017.10.27 00:05:30
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Re:漱石の作品と食べもの41/平八茶屋(10/27)   ヘイハチ さん
はじめまして、平八茶屋の関係の者です。

平八茶屋と夏目漱石の関係が非常に詳しく書かれていて、楽しく読ませていただきました。

また、京都に来られた際には、お気軽にお越し下さい。
京都の料亭というと敷居が高いように感じますが、もともと「街道茶屋」から発祥した「飯屋」ですから、お一人であっても楽しんで貰えると思います。

土井中さまにも「不味い河魚の串」と言われないよう、頑張ります(笑) (2018.02.09 13:42:35)

Re:漱石の作品と食べもの41/平八茶屋(10/27)   ヘイハチ さん
はじめまして、平八茶屋の関係の者です。

平八茶屋と夏目漱石の関係が非常に詳しく書かれていて、楽しく読ませていただきました。

また、京都に来られた際には、お気軽にお越し下さい。
京都の料亭というと敷居が高いように感じますが、もともと「街道茶屋」から発祥した「飯屋」ですから、お一人であっても楽しんで貰えると思います。

土井中さまにも「不味い河魚の串」と言われないよう、頑張ります(笑) (2018.02.09 13:42:58)

Re[1]:漱石の作品と食べもの41/平八茶屋(10/27)   aどいなか さん
ヘイハチさんへ
ブログをお読みいただき、ありがとうございます。僕は、学生時代を京都で過ごしたものですから、平八茶屋さんは昔から存じ上げておりました。
掲載した写真は、学生時代の下宿の集まりがあったもので、叡電の修学院駅で降り、河沿いに歩いて、お店の前で撮影させていただいたものです。
今年は、春に花見をしようと計画しておりますので、時間がこざいましたら、平八茶屋様に伺わせていただきタイト思います。鮎が解禁になっていないのが残念ですが、滋味深い川魚の味を楽しみたいと思います。
漱石の食べ物の好みは、とても偏っているため、感想をそのまま鵜呑みにできないところがあります。例えば、うなぎの好みは「神田川」で、他の鰻屋をけなしています。甘党なのに、タレはやや辛めが好きといった具合です。牛肉が好きな漱石は、川魚の繊細な味がわからないのだと思います。はっきりした味じゃないとわからなかったようで、これは小さい時に養子になったりして、アイデンティティが確立できなかったためではないかと思われます。 (2018.02.17 13:11:19)


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