2508092 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

aどいなか

aどいなか

カレンダー

バックナンバー

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

ぷまたろう@ Re:子規と木曽路の花漬け(09/29) 風流仏に出でくる花漬は花を塩漬けにした…
aki@ Re:2023年1月1日から再開。(12/21) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
LuciaPoppファン@ Re:子規と門人の闇汁(12/04) はじめまして。 単なる誤記かと拝察します…
高田宏@ Re:漱石と大阪ホテルの草野丈吉(04/19) はじめまして。 大学で大阪のホテル史を研…
高田宏@ Re:漱石の生涯107:漱石家の書生の大食漢(12/19) 土井中様 初めまして。私は大学でホテル…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2017.12.20
XML
カテゴリ:夏目漱石

 
 明治40(1907)年6月14日、時の総理大臣・西園寺公望から、漱石の元に招待状が届きました。それは文士招待会(のちに雨声会)への誘いでした。森鴎外、幸田露伴、泉鏡花、徳田秋声、島崎藤村、国木田独歩、田山花袋ら文人たち20人を招待しようと公望が出したものでした。しかし、漱石は当時、朝日新聞に入社したばかりで、最初の新聞小説『虞美人草』を執筆していました。そのため、俳句を添えて断りのハガキを出しました。
 
   障る事ありて或人の招飲を辞したる手紙のはしに
   時鳥(ほととぎす)厠半ばに出かねたり
 
 当時の新聞は、「その簡は陶庵候(西園寺公のこと)の俳句の造詣深きを識れるを以って左の一句をもってこれを結べりとぞ」と、書いています。実は、この俳句には、ある意味が含まれていました。ほととぎすの声をトイレで聞くと縁起が悪いといわれていて、それを打ち消すためにワンワンと犬の声を叫ばねばならないといわれていました。
 漱石は、忙しくて出席できないことを、厠で聞くほととぎすの鳴き声にたとえて、小説を書くという禍事の起こっている私は出席できないと、句に詠んだのでした。この時には、二葉亭四迷、坪内逍遥も西園寺公望の誘いを断っています。
 
 西園寺公も、返句を詠んで漱石の不在を残念がりました。
   まつ甲斐の姿をみたり時鳥  公望
 

 
 6月17日から3日間、文士たちは西園寺邸で、日本橋の「常盤屋」の出張料理を食しながら歓談したといいます。次男・夏目伸六の『父・漱石とその周辺』には、漱石の宴会嫌いについての理由が書かれています。
 
 父の宴会嫌いは、持病の胃弱が高ずるにつれて、次第に激しくなった模様だが、これは、自分一人、酒席の雰囲気に一向馴染めぬ煩わしさも勿論だったと思うけれど、第一、胃酸過多の父としては、日本料理その物に、まるで食慾をそそられなかったという理由も、あったのでは無いかと思われる。
 父が朝日へ入社して間も無くの頃、当時の総理であった西国寺公が、知名の文士を一タの宴に招こうという例の雨声会の招待にも、父は、「時鳥厠なかばに出かねたり」という句を送って、出席を断っているが、その癖、余り酒席の乱れぬ洋食の会合には、時たま出かけることがあったらしい。思うに、「虞美人草」執筆中を理由に「厨なかばに出かねたり」などと、ていのいい事をいってはいるものの、内心では、矢張り、知らぬ酔漢と顔を合わせる、その煩わしさに堪えぬ思いが先立っていたのではないかという気もする。(父・漱石とその周辺 宴会嫌い)
 
 この話には後日談があります。
 大正4(1915)年に漱石は4度目の京都旅行に出かけました。その際、漱石の装丁も手がけた画家・津田青楓と兄の華道家・西川一草亭とともに、木屋町の宿屋「北の大嘉」で、胃病の体を休めながら、書画をたしなむ生活を楽しんでいました。
 一草亭は、当時、西園寺公のところに花を池に行っていましたので、漱石に西園寺公と合わないかと言いました。すると、漱石は「逢ってどうするのかね、逢ったって仕様がないじゃないか、飲食相通ずるくらいなもんだろう」と笑っていたというのです。
 また、西園寺公が飼っていた小ツバメという鳥を絵を描くために借り、漱石が泊まっていた宿にそのカゴを持って行き、絵を描くためヤマガラを借りると行ったところ、漱石は「君、ヤマガラを借りる奴があるものですか。あんな鳥を借り物で済ますのは、帽子を借りるようなものですよ」といわれました。
 漱石は、自分の飼った愛着のある鳥を描かなければいけないという暗喩で、自分の体の一部になっているような帽子でなければ意味がないといったようです。
 一草亭は、友人の薄田泣菫にこのことを話したところ、泣菫は翌年、大阪毎日新聞夕刊に連載していた「茶話」4月18日に掲載した。一草亭は、文士に話をすることは厳禁だと思ったに違いありません。
 
 西園寺陶庵侯の雨声会が久し振りに近日開かれるということだ。招かれる文士のなかには例年通り今から、即吟の下拵えに取蒐(とりかか)っている向きもあるらしいと聞いている。
 いつだったかの雨声会に、夏目漱石氏が招待を受けて、素気なく辞退したことがあった。その後、陶庵侯が京都の田中村に隠退している頃、漱石氏も京都へ遊びに来合せていたので、それを機会に二人をさし向いに衝き合わせてみようと思ったのは、活花去風流の家元西川一草亭であった。
 一草亭は露伴、黙語、月郊などにも花を教えたことのある趣味の男で、陶庵侯の邸へもよく花を活けに往くし、漱石氏へも教えに出掛けるしするので、ついこんな事を思いついて、それを漱石氏に話してみた。
 皮肉な胃病持ちの小説家は、じろりと一草亭の顔を見た。
「西園寺さんに会えっていうのかい、何だつてあの人に会わなければならないんだね」
「お会いになったら、きっと面白い話があるでしょうよ」
「何だって、そんな事が判るね」
 花の家元だけに一草亭は二人の会合を、苅萱(かるかや)と野菊の配合位に軽く思って、それを一寸取持ってみたいと思ったに過ぎなかった。一草亭はこれまで色々な草花の配合をして来たが、花は一度だつて、
「何だって会はなければならないんだね」
などと駄目を押したことは無かった。胃病持ちは面倒臭いなと一草亭は思った。
 一草亭が思いついたように、この二人が無事に顔を合わせたところで、あの通り旋毛曲りの人達だけに、二人はまさか小説の話や俳諧の噂もすまい。二三時間も黙つて向き合った末、最後に椎茸か高野豆腐かの話でもしてそのまま別れたに相違なかろう。(薄田泣菫 茶話 陶庵侯と漱石)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2017.12.20 00:12:40
コメント(0) | コメントを書く
[夏目漱石] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.