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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.01.04
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カテゴリ:夏目漱石

 
 明治29(1896)年6月、漱石は中根鏡子と結婚し、熊本で新しい家庭を築きます。6月9日に光琳寺の家(熊本市下通)で結婚式を挙げました。列席者は新婦の父、東京から来た女中と婆や、車夫の総勢6名。この日は猛暑でした。漱石はフロック・コートを着用、新婦は東京からもって行った一張羅の夏の振り袖、父はふだんの背広服で、簡素な式が執り行われましたが、暑くてたまらないと、鏡子の父は漱石の浴衣を借りて、くつろいでしまいました。
 ただ、鏡子は貴族院書記官長の娘として自由に育ったため、家事は思うようにできませんでした。しかも、朝寝坊で、漱石は朝食抜きで学校へ行くこともありました。
 明治30年(1897)、結婚して初めての正月は、熊本2件目の家の合羽町(現・熊本市坪井)で迎えました。新築で部屋数も多かったため、同僚の長谷川貞一郎や山川信次郎が下宿していました。この正月、鏡子は苦心しておせち料理をつくりました。しかし、下宿していた漱石の同僚・長谷川貞一郎を訪ねてくる学生たちが多く、用意していたおせち料理は、食べ盛りの学生たちが食べ尽くしてしまい、出す料理がなくなってしまいました。漱石は怒り出して、年始早々大げんか。鏡子は元日の夜から十二時ごろまでかかってきんとんづくりに精を出しました。これに懲りた漱石は、次の年から、正月は家にいないよう、旅行に出かけるようになりました。
 

 
 長谷川さんは私たちと違ってなかなかの交際家でして、お客がずいぶんとおいでになります。翌年新家庭初めての正月を迎えました時に私もさっぱり、勝手はわからぬなら、大いに奮発していろいろ御馳走を調えたつもりでしたところ、なにしろ思いがけなくお客が四、五人、生徒が五、六人もつめかけて来る始末で、さっそく金団(きんとん)がなくなったのを始めとして、後から来た方々にはお膳も出せない始末、そこへ女中は一人と来いるし、出入りの商人がまたどうしたものか、自分のほうも正月だとあって少しも仕出しをしてくれないので、とうとう不体裁だとあって、夏目が怒りだします。長谷川さんが気の毒がって仲を取りなしてくださいますけれども、私も口惜しいので、晴れ着の上に前掛けをかけたままで、元日の夜から十二時ごろまでかかって、金団を作りました。なにしろお客の口数の多いところへもって行って、生徒さんたちがむやみとたべるのだからやりきれたものではありません。私も泣きたくなったのですが、夏目もこれにこりたと見えて、正月には家にいないに限るとあって、次の年から正月へかけて、たいてい大晦日あたりに旅行に出ることにいたしました。(漱石の思い出)





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最終更新日  2018.01.04 00:06:33
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