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カテゴリ:正岡子規
明治30(1897)年は、松山において1月に「ほととぎす」が創刊されました。このころの子規は、俳句界に新風を吹き込もうと、躍起になっていました。元旦は鎌倉に滞在して、4日に新年の発会式を上野池之端の「湖心亭」で開きました。 この年の新年に詠んだ俳句には次のようなものがあります。 塗椀の家にひさしき雑煮哉 蓬莱や上野の山と相対す と、「病気などに負けるものか」という、エネルギーの感じられる句を詠んでいます。 明治31(1898)年は、蕪村を旗頭にして俳句革新を進めた年であり、『歌よみに与ふる書』で短歌革新も標榜した年です。まだ死ねぬとばかり、この年も元気な子規でありました。3日に子規の家で根岸会発会が催され、門人たちが集まりました。 門番に餅を賜ふや三ケ日 めでたさも一茶位や雑煮餅 しかし、明治32(1899)年になると、体に陰りが見えて、少し気弱になってきます。その気分を反映してか、この年は病状が悪化して、座ることができなくなりました。元日から子規は発熱します。この日、昨年暮れに高浜虚子からもらった鴨をタライから隣の陸羯南の家の池に放しました。子規は、背負われて羯南宅へ行き、鴨を見送ります。しかし、鴨はその後に死んでしまいました。 初暦五月の中に死ぬ日あり 明治33(1900)年の正月は、やや体の調子が良くなりました。しかし、春になると病状が悪化し、6月を最後に人力車で出かけることも不可能になりました。秋には漱石がロンドンに旅たちます。7日に根岸庵歌会が開かれました。 いたつきの病の牀(とこ)をおとづれし年ほぎ人に酒しひにけり 長病(ながやみ)の今年も参る雑煮哉 病牀を囲む礼者や五六人 病室の暖炉の側や福寿草 明治34(1901)年は、死への恐怖からか時に取り乱すようになりました。冬には門人たちが交代で看病するようになります。 あら玉の年のはじめの七草を植えて来し病めるわがため 春深く腐りし蜜柑好みけり 春の日や病牀にして絵の稽古 明治35(1902)年は、子規が鬼籍に入る年です。句も歌もどことなく死の影がつきまといます。 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく 薬飲むあとの蜜柑や寒の内 大事がる金魚死にたり枯しのぶ 鬚剃るや上野の鐘の霞む日に
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最終更新日
2018.06.06 05:56:49
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