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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.01.23
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カテゴリ:子規と漱石

 
 明治22年(1889)から、子規は生涯の友となる夏目金之助と交友を深めます。
 明治17年(1884)に子規と金之助は東京大学予備門に入学しました。子規は、明治18年(1885)の学期末試験で不合格となって落第しましたが、金之助も腹膜炎のため、翌年の進級試験を受けられず、落第の憂き目を見ていたのでした。
 落第で同級という、偶然の絆を結んだ二人は、子規の『七草集』をきっかけとして、話を交わすようになりました。『七草集』は、明治21年(1888)の夏に向島にある長命寺境内の桜餅屋に寄宿して書き上げたのです。秋の七草から題を取り、漢文の「蘭之巻」、漢詩の「萩之巻」、和歌の「をミなへし乃巻」、俳句の「尾花のまき」、謡曲の「あさかほのまき」、「かる萱の巻」で構成されるこの本は、後に向島の地誌「葛之巻」と小説の「瞿麦の巻」を書き足し、「かる萱の巻」をはずしました。この『七草集』は、友人たちの間で回覧されて評判となりました。
 金之助は、この文集の評で初めて「漱石」の号を用いました。この雅号は、子規がかつて名乗っていたこともある雅号だったのです。
 子規が書いた『七草集』に誘発され、 漱石は漢詩集『木屑録』を書きました。これを読んだ子規は、「甚だまずい」漢文で「頼みもしないのに跋」を書いてよこしたと、漱石は『正岡子規』の中で語っています。
 互いの技量を知った二人は、書簡を頻繁に交わして友情を深めました。
 漱石は「一体正岡は無暗に手紙をよこした男で、それに対する分量はこちらからも遣った」(『正岡子規』)と語っていますが、文学観や人生観、苦悩する心情などに彩られた手紙は、二人の心を結びつけました。
 子規は、これらの手紙で自分を「妾」、漱石を「郎君」と書いて、我が身を女性に擬していますが、現実の子規は、漱石を子分のように扱っていました。
 

 
 僕も詩や漢文を遣っていたので大いに彼の一粲を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。ある時、僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて、その中に下らない詩などを入れておいたそれを見せたことがある。ところが大将頼みもしないのに跋を書いてよこした。……非常に好き嫌いのあった人で、滅多に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わしておったので、それも苦痛なら止めたのだが苦痛でもなかったからまあできていた。こちらが無闇に自分を立てようとしたら、とても円滑な交際のできる男ではなかった。例えば発句などを作れという。それを頭からけなしちゃいかない。けなしつつ作ればよいのだ。策略でするわけでもないのだが自然とそうなるのであった。つまり僕の方が人がよかったのだな。……も一つは向こうの我、こちらの我とが無茶苦茶に衝突もしなかったのであろう。忘れていたが彼と僕と交際し始めたも一つの原因は、二人で寄席の話をした時、先生も大いに寄席通をもって任じておる。ところが僕も寄席のことを知っていたので、話すに足るとでも思ったのであろう。それから大いに近よって来た。(夏目漱石『正岡子規』)
 
 「子規という男は何でも自分が先生のようなつもりでいる男であった。俳句を見せると直ぐそれを直したり圏点をつけたりする。それはいいにしたところで僕が漢詩を作って見せたところが、直ぐまた筆をとってそれを直したり、圏点をつけたりして返した。それで今度は英文を綴って見せたところが、奴さんこれだけは仕方がないものだからVery goodと書いて返した』と(漱石は)言ってその後よく人に話して笑っていた。(高浜虚子『漱石氏と私』)
 
 子規が始終敬服していたのは、何といっても漱石であったようだ。しかし漱石にも無条件で敬服することは彼の覇気が許さぬようだった。『江戸児には奇気が乏しい、それが文章の上にも露われると夏目に言ってやったら、反駁めいた長い手紙が来たよ』と語られたことがあった。(菊池仙湖『予備門時代の子規』)





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最終更新日  2018.01.23 00:22:33
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