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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.05.03
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カテゴリ:夏目漱石

 
 漱石にとって酒とともに、鮭も好物ではありませんでした。
『正岡子規』という追悼の談話の中で「正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。それからノートを借りて写すような手数をする男でも無かった。そこで試験前になると僕に来てくれという。僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴のことだからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖に、よしよし分ったなどと言って生呑込にしてしまう。その時分は常盤会寄宿舎にいたものだから、時刻になると食堂で飯を食う。ある時また来てくれという。僕がその時返辞をして、行ってもええけれどまた鮭で飯を食わせるから厭だといった。その時は大に御馳走をした。鮭を止めて近処の西洋料理屋か何かへ連れて行った」とあります。
 
 また、『硝子戸の中』で学生時代のO(太田達人)について「彼は貧生であった。大観音の傍に間借をして自炊していた頃には、よく干鮭を焼いて佗びしい食卓に私を着かせた。ある時は餅菓子の代りに煮豆を買って来て、竹の皮のまま双方から突っつき合った」と書いています。
 どちらも、鮭を食べるということは、貧しい気分を募らせるものだとわかります。しかし、どちらも、そうした「鮭」を小道具にして貧しさを語っても、どこか青春時代の楽しい交友もほの見えてきます。
『倫敦塔』には、「草の如く人を薙ぎ、鶏の如く人を潰し、乾鮭の如く屍を積んだのはこの塔である」という文章が出てきます。漱石の「干鮭」に対する気分には、どこか重々しい憂鬱なものがあり、まるで屍体を運ぶかのごとく、どっしりと横たわった、生命感のない様子が伝わってきます。半ばうんざりした無感動の塔の生活が想像されます。
 

 
 干した鮭というと塩鮭を連想しますが、江戸時代に書かれた『本朝食鑑』を見ると「塩引」と「乾鮭」の二種類があります。
「塩引」は「近世産地である諸州でこれを造っているが、越後・陵奥の産が上品である。越州のものは軟らかく、奥州のものは堅い。ともに深紅色で、味は極めて美味い。またこれを翌年の春夏まで貯蔵しておけば、堅固しまって臭腐しない。州の守令は毎年これを貢献している。その造法は、生鮭の鱗・鰓を去り、腹を割いて諸腸を捜り棄て、洗浄し、子胞(はら)を充填して腹ロを封じ、塩水に一昼夜つける。次いでこれを採り出し、一両日ほど陰乾にし、乾かしてからまた、初めのように塩水につける。これをさらに採り出し、陰乾して乾いたら、さらに稲草(わら)で堅く封じて陰に乾し、一月余を経て収用するのである。これを子籠という。『本朝式』(『延喜式』)にいう内子(こごもり)の鮭である。腹に子をつめないものもあって、これが尋常に塩引とよばれるもので、秋田・松前から貢献するものが最も絶勝とされる。越後・中の産がこれに次ぐ。
 考えるに、昔は楚割(そわり・すはやり)というのがあり、源順( 『和名抄』)は「魚条、とに須波夜利と訓む。あるいは曾和利ともいう」といっている。これは今の塩引の類ではなかろうか。源頼朔が入浴の時、遠州菊河の駅に宿したが、佐々木盛綱が小刀を鮭の楚割に副えて進めた。頼朝は大変喜び、歌を詠んで謝したという。これは盛綱が越後を領していた故である。他日、生鮭を進上したのも、やはりそうである。凡そ昔から、この魚を賞美して久しい。『式』(『延喜式』)の神祇官に、鮭五隻・楚割三隻の記事があり、主計(上巻〉の部にも、信濃・越中・越後よりこれを貢献した記述がある」、
「乾鮭」は「松前・秋田、および両越に最も多く産し、諸州に伝送している。乾鮭のつくり方は、生鮭の腸を取り去り、屋上に投げ出したり樹枝にかけたりして乾曝し、日をおく。その中に鮭の開きというのがある。生鮭の鱗鰓・胆腸を取り去り、洗浄し、背開きにして曝乾したもので、尋常の乾鮭の比ではない。これは松前・秋田のものが佳品い。その地では大抵、冬月に鮭が逆流をついて川源の深淵にさかのぼってくる。草石の間に子を生みつけると、腹は開け体はやせて流落し、流れに従って下る。その数は幾千百とも知れない。そのとき漁人は長い竹竿の先を削り尖らし、岸辺にいて流落の鮭を刺し、遁かに屋上に抛げる。自然に結露に暴し風日に晒し、乾鮭として全国に出荷する。現今西京・江都に伝送しているものは悉くこの土地の鮭である。
 松前の北方は蝦夷に通じる。蝦夷は乾鮭を甚だ多く産する地である、そこは、女真に連なり極北に位置する寒い州であるため、秋の初めから翌夏の初めに至るまで雪がある。それで五穀は生ぜず、土地の人は皆血食する(獣の肉を食べる)。冬虫入居に備え、秋に至って乾鮭を多く作って貯え、穴居の間はこれを食べて生命を保つということである」と説明しています。つまり、「乾鮭」には塩を聞かせていなかったということになります。ただ、当時から、鮭は卑しい魚だったということになります。
 
 明治40年1月18日の高浜虚子に宛てた手紙には野上弥生子の小説『縁』を紹介していますが、その中にイマドキの小説好きは「鰒汁をぐらぐら煮て、それを飽くまで食って、そうして夜中に腹が痛くなって煩悶しなければ物足らないという連中が多いようである。それでなければ人生に触れた心持がしないなどといっています。ことに女にはそんな毒にあたって嬉しがる連中が多いと思います。大抵の女は信州の山の奥で育った田舎者です。鮪(まぐろ)を食ってピリリと来て、顔がポーとしなければ魚らしく思わないようですな。こんななかに「縁」のような作者のいるのは甚だたのもしい気がします。これをたのもしがって歓迎するものは『ホトトギス』だけだろうと思います。それだから『ホトトギス』へ進上します」とあり、鮪はどうも嫌われています。
 また、明治40年6月21日の森田草平に宛てた手紙には「七夕さまへ感服してくれたのはうれしい。滝田樗陰、書を三重吉に寄せて曰く、夏目先生があんなものをほめるに至っては聊か先生の審美眼を疑はざるを得ずと。樗陰はあれを浅薄というそうだ。樗陰は二三日中君の所へ来訪の筈、よく説諭してくれたまえ。あれは北国で仙台鮪ばかり食っていたからそんなことをいうのだろうと思う」と書いています。
 
 今みたいに冷凍技術が進歩していない明治時代には、仙台で取れた鮪は腐ってしまい、舌がピリピリするほどに変わってしまいます。そのため、今では高級な「仙台鮪」は、下魚の最たるものでした。
 もともと魚の嫌いな漱石は、「鮭」も「鮪」も気に食わなかったのでした。





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最終更新日  2018.05.03 00:53:40
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