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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.05.06
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カテゴリ:正岡子規

 
 子規が明治24(1891)年12月11日から住んだ本郷区駒込追分町を離れ、下谷区上根岸八十八番地、陸羯南の西隣に引っ越してきたのは、明治25年2月末でした。しかし、そこに住んだのはわずか2年足らずで、明治27年2月1日には、掲南の南隣の家(上根岸八十二番地)に移転します。この家が、いわゆる子規庵で、子規の終の棲家となりました。
 その頃、鼠骨は子規庵と鉄道線路を挟んだ谷中の涼泉院に住んでいました。子規の病状が悪化すると、交替で子規の看護に当たる必要から、河東碧梧桐は目と鼻の先の根岸七十四番地に、高浜虚子も日暮里村元金杉に住まいを移しました。鼠骨、碧梧桐、虚子とも、家から子規庵へは10分もかからずに駆けつけることができました。
 子規が移り住んだ根岸は、饗庭重村、幸田露伴らの文人墨客が多く住み、江戸時代から鶯の鳴く「呉竹の里」と呼ばれていました。根岸は吉原の遊里に近く、遊女の保養する寮や妾宅なども多く点在しており、いわば隠れ里のような場所でもありました。
 
 子規が明治35(1902)年9月19日に没してから、10年経った明治44(1911)年、門弟たちの間で子規庵保存の話が持ちあがりました。子規庵は、加賀前田侯が所有していましたが、なかなか売却に応じてくれませんでした。
 関東大震災では、幸いにも倒壊を免れまた。前田家は、震災後に根岸一帯の土地を手放すことになり、その土地代は大正13(1910)年から刊行されたアルス版『子規全集』の印税や門弟たちの寄付によりなんとかまかなうことができました。
 昭和20(1945)年4月の東京大空襲で四季庵は焼失しましたが、遺墨をはじめとする貴重な子規関連の資料は、土蔵におさめられていたため、なんとか失わずにすみました。蔵は、昭和3(1927)年にできたもので、鼠骨の提案でコンクリート造りとし、子規の遺稿や蔵書はそこに保管することにしました。鼠骨は子規の作品集を出版するなどして費用を捻出。東京大空襲でも無傷で残り、多くの子規の遺稿、遺品を後世に引き継ぐことができました。
 子規庵が復元されたのは、昭和25(1950)年のことで、詳細な図面が残されていたため、子規存命中の姿に建物復元が可能となりました。この復元には、寒川鼠骨の尽力が大きかったといいます。鼠骨は、子規庵が再建されると、そこに住んで自ら子規庵を守ることにしました。
※粗忽が届けた愚庵の柿は​こちら
※鼠骨貧士の餅は​こちら
※鼠骨と虚子の漱石の文壇デビュー支援は​こちら
 

 
 鼠骨は、『子規遺墨集』『分類俳句全集』『子規絵日記』『子規選集』などの編集を通じて、子規の文学的偉業を後世に伝えました。鼠骨はアルス版、改造社版と二つの『子規全集』の編集の中心となって出版にこぎつけています。鼠骨にとって、子規は親以上の存在であり、後世に子規の全てを伝えなければならないという命題を実践し続けたのでした。
 鼠骨晩年の昭和27(1952)年に書かれた『随攷子規居士』には、昭和17(1942)年に行われた四十忌のことが「子規居士四十年忌」として書かれています。
 鼠骨は、四十年忌の料理を料理屋に頼んだのですが、戦時中でもあり、「十人前以上で三日以前に人数を決めて注文しないとできません」といわれます。そのため、自分で調理をしなくてはなりません。
 
 精進であるにしても山海の珍味を揃えたい。先ず山の物として椎茸は動かぬところだ。幸いに居士の郷里伊予の山に産したのを贈られて、保存してあるから、これは心配がない。海のものとしては、昆布は吉事に使うが、荒布は仏事にも使う。荒布を探さねばならない。畑物としては、南瓜、茄子、芋、牛蒡、人参、蓮根、山芋など得られるものを使う外はない。どれが手に入るか蓮符天符だ。この外に高野豆腐があるとよい。油揚も欲しい、手に入るか、どうか。
 お平の一般方略は先ずこんなこととして、材料の蒐集につとめた。毎日々々、銀座の食料品店や、百貨店の食品部や、日本橋に並んでいる食料品店や、浅草から上野にかけての乾物屋などを探捜して歩行いた。秋が中々暑い。半日で汗だくだくで帰って来るのだった。高野豆腐も荒布も遂に手に入らず仕舞い。山海の珍味の海のものは遂に無いので、山野の珍味で満足して貰うほか仕方がないのを申訳なく思う。
 畑のものは、謹んで一列をすること二日に及んで漸く南瓜、茄子を手に入れることが出来たばかり、牛蒡も人参も、山芋も、里芋も、蓮根も貰えなかった。この外に私としては未だ一つ問題があった。
……中略……
 居士は鮓が好きであった。居士だけではない。居士の郷里松山の人は皆鮓を賞味する。正月の重箱にも鮓、氏神祭礼にも鮓、遊学子の送別にも鮓、料理屋へ行っても必ず一皿の鮓は欠かさず膳に乗っている。勿論鯛鮓だが、その他の材料によるものでも鮓なら何でも賞味する。凡そ宴会に併は欠く可からざるものとしているくらいだ。居士もそうした風俗に育って来たため、鮓は好きであった。令妹の律子さんも居士の御祥月には必ず精進鮓をつけておられた。私が修忌するからには、鮓をつけて供えたい。精進鮓の材料としては筍、凍豆虜、凍蒟蒻、松茸、蓮根などに、青味として春ならば蕗、莢豌豆、秋ならばいんげん豆、藤豆、紅味としては必ず人参が必要なのだ。松茸や筍は、戟前は年中塩蔵品がザラに食料品店に出ていたが今は影を没してしまった。凍豆腐も、凍蒟蒻も無い世の中だ。蓮根などは、郊外へ散歩すると、広い蓮田が続いているから、無い筈はないのが、市場へは姿を見せない。戦時だから万事已むを得ない。せめて、椎茸と、紅味の人塞と、青味のいんげん豆か藤豆だけは是非共調えなくてはならぬと思った。一列鍛錬をやるが、どうしても得られない。千葉県馬橋の公立の農場の先生を長男が知っている。長男は遠く馬橋に走って、先生に依頼した。いんげん豆は与えられたが、人参は得られなかった。その代り薩摩芋を沢山に貰って帰って来た。
 大出来々々々、大成功々々々、甘藷は天麩羅にして引物として供えることが出来る。ありがたいありがたい、しかし人参がなくては精進鮓にはならない。いろいろ苦心したが人参は遂に手に入らない内に逮夜の十八日になった。残念だ。
……中略……
 霊前に黙座し、お位牌をみつめていると、またも残念な人参を思い出す。是非とも鮓は供えたい。普通の年のお祥月にさえ、欠かさず供えた鮓だ。人参タッタ一つのために居士の好物が供えられないのは、どう考えても申訳がない。腕を組んで考える。ふと思い出したのは人参の糠味噌漬があることだ。よろしい、あれを応用しようと、漬瓶の蓋をあけて取出して見ると、色は少し黒ずんでいるが仔細なかりそうだ。時は早や初夜過ぎ、早速取出して水でよく洗い、俎にのせて細々と線切りにして水に浸す。こうして一晩塩出して置けば、どうにかなるだろう、うまく考えついたものだが、果して塩が出るか、どうか、など思いつつ更けてしまう。
……中略……
 行水を終るや否や急いで今日の仏餉の用意に取りかかる、グズグズしていては間に合わないのだ。
 先ず昆布ダシをつくって置いて、そのダシ汁で、お平の煮物から始める。椎茸、湯葉、莢いんげん、里芋、終りに南瓜の順序で、つぎつぎに煮る。これだけを加減よく煮るために二時間余りを費して午近くなった時に、早くも橿堂、専吉二君が来会した。急がしいのだが、午飯を与えねばならない。有るもので済ませてもらうことにし、お平用の煮物を仏餉具に取り盛ったあとの、南瓜と里芋とで飯を出した。専吉君は午飯を食わない習慣だから頂戴しないという。橿堂は微笑しつつ、都の人は二食でも済むだろうが、田業男は到底二食では働けないといって、組末な午飯も、おいしそうに食ぺてくれるのであった。
 次は猪口物の料理に取かかった。胡瓜を細打ちにして塩でもみ、蒟蒻と、薄揚げとを線切にして薄く味をつけ、味噌を摺鉢に取って以上の三品を和えた。思いの外、小面倒で、一時間も費してしまった。それから豆腐汁、次に甘藷、茄子、茗荷花の精進揚を、あげ終った時には既に午後二時近くだった。未だ居士の好きであった鮓を壓さねばならぬ。全生庵の和尚へは三時という案内を出している。急行だ。人参、莢いんげん、椎茸を手早くきざみ、煮て味をつけている間に飯を炊ぎ、せかせかして五目鮮を壓し、漸く午後三時の間に合せることが出来た。(寒川鼠骨 随攷子規居士 子規居士四十年忌)
 
 子規の四十年忌に集まったのは、わずか5人でしたが、鼠骨は「その一人一人が真剣に子規先生の道を忠実に守り抜こうという人々であったことをカ強く思うのであった」と記しています。
 鼠骨は、昭和29(1954)年8月18日、子規の53年忌がやってくる前、子規庵の6帖の間に享年80歳で没しました。
 
   糸瓜忌や大雨に会す真五人  鼠骨





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最終更新日  2018.05.23 16:15:56
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