2499757 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

aどいなか

aどいなか

カレンダー

バックナンバー

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

ぷまたろう@ Re:子規と木曽路の花漬け(09/29) 風流仏に出でくる花漬は花を塩漬けにした…
aki@ Re:2023年1月1日から再開。(12/21) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
LuciaPoppファン@ Re:子規と門人の闇汁(12/04) はじめまして。 単なる誤記かと拝察します…
高田宏@ Re:漱石と大阪ホテルの草野丈吉(04/19) はじめまして。 大学で大阪のホテル史を研…
高田宏@ Re:漱石の生涯107:漱石家の書生の大食漢(12/19) 土井中様 初めまして。私は大学でホテル…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2018.05.12
XML
カテゴリ:正岡子規

 
 明治25(1892)年11月18日、子規は、隣の家の陸羯南に呼ばれて「日本」への正式入社が決定しました。羯南が社長兼主筆をつとめた「日本」は、日本の伝統に基づいた近代化を標榜しようと、明治二十二年の明治憲法が発布された日に創刊されています。石井研堂著『明治事物起原』には報知、日々、時事、朝野、毎日、読売とともに七大新聞と記されており、明治の言論界に大きな影響を及ぼした日本新聞社に子規は入社しました。
 いつも出社しなくてよい代わりに、月給は十五円と決まります。叔父の大原恒徳に宛てた手紙には、「右手紙書き畢らぬところへ陸より呼びに来たり参り候ところ、いよいよ毎日出社のことに相決まり候。しかし別にこれというほどの職業も御坐なく候ゆえ、いやな時は出勤致さずともよろしくと申し候。そのかわり月俸十五円に御坐候。これは陸一人よりいえば大いに気の毒がるところなれども、社の経済上予算相定まりおり候ゆえ、本年中は致し方これなく、来年になれば五円か十円のところはともかくも相なり申すべくと申しおり候。それまでのところ足らねば、自分が引き受け申すべくよし、懇に申しくれ候。……もっとも我が社の俸給にて不足ならば、他の国会とか朝日新聞とかの社へ世話致し候わば三十円ないし五十円くらいの月俸は得らるべきにつき、その志あらば云々と申し候えども、私はまず幾百円くれても右様の社へは入らぬつもりにござ候」(『明治25年11月18日 大原恒徳宛書簡』)とあり、この給料で不足なら他の新聞社に紹介するという羯南に、いくら給料を貰っても他の会社には入らないと子規は断ったとあります。
「日本」の主筆だった古島一念は、子規の印象を「はじめ子規の叔父の加藤拓川の紹介で入社さしたいから君、逢ってやってくれ。で、子規に逢ったんだ。日本新聞社で。蒼ブクレで、紺絣の着物を着ていた。君は一体日本新聞に入社したいというが今何をしている、と聞くと、大学へ行っている。何年だというと、まだあと一年あると言う。あいつは試験のために勉強するのは嫌になった。井上哲次郎の哲学なんか聞いておれんと言うんだ。こいつ面白い奴と思った。君、新聞社に入ってなにをするんだ。芭蕉以来堕落している俳句を研究したいと、しきりに講釈するんだ。おれは「古池や」くらいは知っている、が俳句というものはろくに知っとらん。あいつは、身体が弱いと自覚しておった。早く新聞によって、この志を急いで発表したい。一年が待てんというのだ。(古島一雄翁の子規談)」と語っています。
 ただ、子規を日本新聞に採用した目的には「程なく君の入社となったが、その当時日本新聞は欧化主義に反対して起こりたる余勢をもって、その主義を鼓吹する上から国文を振興しようという考えで、しきりに小中村、落合二君などの和歌入りの紀行文を載せておった。従って俳句入りの文章もしくは俳文体のものなども幾らかその助けになるのみならず目先が変わってよかろうという、主義発揚の上やら、ないしは新聞政略の上から君の入社に賛成した。(小島一念 日本新聞に於ける正岡子規君)」とあります。
 12月1日、日本新聞社に初めて出社した子規は、堀江沖に軍艦千鳥が沈没し死者七十四人を出した事件に題をとり「ものゝふの河豚にくはるゝ悲しさよ」の句を詠み、翌日の紙面に掲載されました。その前から、子規は「日本」に大学在学中の明治25年5月27日から螺子の名で紀行文『かけはしの記』、6月26日から、獺祭書屋主人の名で『獺祭書屋俳話』を新聞「日本」に連載しています。
 

 
 明治27(1894)年の2月11日、子規は新しく創刊された「小日本」の編集責任者となります。「日本」は時の伊藤博文内閣を鋭く攻撃したため発行停止をしばしば受けました。その対応策として、新しい新聞の発刊が急務とされていたのです。
 ただし、「小日本」は従来と異なる読者層を開拓するため、上品な家庭向きの絵入り新聞として構想されました。
 「小日本」の創刊に先立ち、子規は新しいスタッフを集めました。記者に常盤会寄宿舎時代の友人・五百木瓢亭、社内画家に浅井忠が紹介してくれた中村不折を迎えます。できあがった新聞は、だれ気味のない品のよいものとして、おおむね好評でした。
 古島一念は「二十六年となって、我が日本は条約励行の中堅となって時の政府に当たったが、政府は発行停止の利器を振りかざして直に言論の自由を抑圧する。……停止のために新聞社の蒙る経済上の損失は実に巨大である。だからどうかしてこれが救済の道を講じたい、それには平素から別に一新聞を興しておいて、日本新聞が停止せらるると同時に読者に配付すれば、第一読者に不便を感ぜしめないのみならず、新聞維持の上においても方法が立つ……家庭に読み得られるような上品のものがないからこの目的で一新聞を興そうというので、さては小日本発刊のこととなった。……編集の主任その人はどうしても適任者がない、そこで思い切って子規君をやらせてはどうだということになった。無論反対はなかったが、危み手は多かった。……ところがその新聞ができてみると、誠に小じんまりとした、だれ気味のないそうして品のよいものができてきた。(古島一念 日本新聞に於ける正岡子規君』)」と語っています。
 子規が『小日本』の編集長になると、生活にも多少の余裕が出て来ました。3月8日、大原恒徳氏宛の手紙に「私月俸三十円までに昇進仕候故どうかこうか相暮し可申とは存候得共、こんなに忙がしくては人力代に毎月五円を要し、その外社にてくう弁当の如きものや何やかやでも入用有之、また交際も相ふえ(芝居などにも行き申侯)候故三円や五円は一朝にして財布を掃うわけに御座候。近来は書物というもの殆んど一冊も買えぬように相成申候」とあります。
 しかし、日清戦争を目前に控えたこの時期、「日本」が論陣を張ると発行停止となり、代わって「小日本」が内閣批判を行えば、これも発行停止となります。経済的に成り立たなくなった「日本」は「小日本」の廃刊を決定しました。紀元節に誕生した「小日本」は七月十五日の盂蘭盆にその命を終えたのでした。
 
 「小日本」を手伝った五百木瓢亭は、当時のことを『我が見たる子規』に綴っています。
 
 我輩の軍隊生活が終に近づいた頃、正岡が手紙をよこしてこういうことをいって来た。今度日本新聞社で別に「小日本」という新聞を出すに就て、自分が主になってやることになったが、君も一緒にやらんか、というのである。我輩は元来医者になるのが厭で堪らないのだが、外に何も無ければ仕方が無いと思っていたところだから、早速承諾した。……中略……
 昌平橋の通を真直に突当ったところ、神田雉子町三十二番地に日本新聞社は在った。団々珍聞の迹で、ボロボロの南京屋敷である。その筋向ーー中川という牛肉屋の並びに蕎姿屋があって、その隣の角家で奥に土蔵がある、その土蔵の二階が「小日本」の編輯室であった。八畳あるかなしの狭
い部屋だったと思う。その時の顔触は古島一雄、斎藤信の二人が二面担当、仙田重邦が会計経営の方面で、多少経済記事などもやる。外に荒木という相場記者がおった。我輩は三面を引受けて、探訪を二人ほど使う。正岡は主に文学方面の記事をやることになって、旧稿の「月の都」を第一号から連載したりした。
 日本新聞社では毎年創刊記念日として、紀元節に宴会を開くことになっている。この年は「小日本」の創刊祝賀を兼ねて、開花楼で宴会を聞いた。正岡もはじめて自分が主になってやる仕事ができたので、多少嬉しかったらしい。二次会をやろうといって、我輩を吉原へ連れて行った。我輩を吉原へ案内した最初の人は正岡であった。
「小日本」は小人数ではあるし、毎日一頁分位の記事を書いて校正から大組まで見て帰るのだから午前十時頃出て行って、どうしても夜の十時頃までかかる。工場は無論、日本新聞のを使うのである。我輩は新聞には無経験だったけれども、そも頃は何か書くということに興味があったし、元来無頓着な性分だから、不馴な仕事の中に飛込んでも存外平気だった。月給十二円、その頃は十二円あれば、下宿をして楽に暮せたものである。正岡も割合に元気で、毎日車に乗って出て来た。
 そのうちに画家が必要だというので、浅井の紹介で中村不折が入社した。これは毎日社へ出て来たわけでもなかったかと思う。次いで石井露月が校正に入る。それまでは校正はめいめいが見て、別に校正係というものは無かったのだ。露月が入ってから間もなく、我輩は召集されて広島に行か
なければならなくなったので、露月のことはあまりよく知らない、露月は「小日本」廃刊後「日本」に移ったが、我輩が「日本」に入った時はもういなかった。その後会う機会はあったかもしれないけれども、何も記憶に残っていない、今でも露月の事を考へると直ぐ目に浮かんでくるのは、「小日本」に来た当時の、鼻の低い、丸い顔である。……中略……
「小日本」は紀元節に生れて孟蘭盆に倒れた。我輩はそれより前に軍に従って広島に下り、しばらく滞在している間に正岡から廃刊のことを知らせて来たのである。我輩が出発する時には、それほどセッパ詰っているとも思わなかった。原因は経済難であるが、当時は日清戦争前なので、「日本」は盛に内閣攻撃をやって発行停止を食う。仕方がないから、今度は「小日本」を代りに用いるので、この方もやられる。日本新聞社と小日本社と向い合って発行停止の看板を出していたこともあった。それやこれやで長く続かなかったのであろう。(五百木瓢亭 我が見たる子規)
 
「小日本」創刊祝いで使われた「開花楼」は神田明神の近くの宮本町にありました。『割烹店通志』には「高台に位置を占め、巍巍たる三層楼を有し、眺望絶佳にしてことに柳条の霏々として一天銀界となるの日三層に座して酒を酌むが如き。この楼を借りて、他にあらざる処なり。然れども、さの地美妓に乏しきを持って風流引致の少なきを遺憾とす。割鮮一般花清山戸屋に大差なしといえども、その格位二楼の右に出でしが惜しむ本(明治18)年二月十二日湯島に失火あり。開花この災に遇う」とあります。その後改修され、『東京百事便(明治23)』には「間仕切りを取り払えば上下とも三間に十一間の広間となる。楼上一望、東京市街の過半を見るべく、懇親会などには適当なる楼なり」と書かれています。
 
また、日本新聞社近くの「中川」は、『東京百事便』に「神田雉子町団団社の向かい角にあり、肉の味美なるが故に牛肉通のこの家に飲むもの多し。もっとも夜は早仕舞いなり。御成道に支店あり」とありますが、蕎麦屋の名前は残念ながらわかりません。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2018.05.12 00:10:04
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.