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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.06.27
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カテゴリ:夏目漱石

 
 漱石と二葉亭四迷(本名:長谷川辰之助)の出会いは、漱石が朝日新聞に入社してからのことでした。四迷は、明治37(1904)年3月に大阪朝日新聞社の東京出張員となり、ロシア文学の翻訳を中心に、紙面を飾っていました。
 漱石は、明治40年4月に朝日新聞社に入社しましたが、その際に四迷と会っています。
 漱石は、四迷が朝日新聞に入社していたことを知らず『長谷川君と余』には「余が入社の当時すらも、長谷川君がすでにわが朝日の社員であるということを知らなかったように記憶している。それを知り出したのは、どういう機会であったか今は忘却してしまった。とにかく入社してもしばらくの間は顔を合わせずにいた。しかも長谷川君の家は西片町で、余も当時は同じ阿部の屋敷内に住んでいたのだから、住居からいえばつい鼻の先である。だから本当をいうと、こっちから名刺でも持って訪問するのが世間並の礼であったんだけれども、そこをつい怠けて、どこが長谷川君の家だか聞き合わせもせずに横着をきめてしまった」とあります。
 漱石が四迷と初めて会った時、「あんなに背の高い人とは思わなかった。あんなに頑丈な骨骼を持った人とは思わなかった。あんなに無粋な肩幅のある人とは思わなかった。あんなに角張った顎の所有者とは思わなかった。君の風貌はどこからどこまで四角である。頭まで四角に感じられたから今考えるとおかしい。(長谷川君と余)」「品位のある紳士らしい男――文学者でもない、新聞社員でもない、また政客でも軍人でもない、あらゆる職業以外に厳然として存在する一種品位のある紳士から受くる社交的の快味であった。そうして、この品位は単に門地階級から生ずる貴族的のものではない、半分は性情、半分は修養から来ているということを悟った。(長谷川君と余)」とあり、体格の堂々としたところと、紳士的な立ち居振る舞いに好感を抱いたのでした。
 
 ただ、漱石と四迷は、その後互いの家を訪れることはありませんでしたが、ある日のこと、銭湯で出会います。「ある日の午後湯に行った。着物を脱いで、流しへ這入ろうとして、ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である。余は長谷川さんと声をかけた。それまではまるで気がつかなかった君は、顔を上げて、やあといった。湯の中ではそれぎりしか口を利かなかった。何でも暑い時分のことと覚えている。余が身体を拭いて、茣蓙の敷いてある縁先で、団扇を使って涼んでいると、やがて長谷川君が上がって来た。まず眼鏡をかけて、余を見つけ出して、向うから話しを始めた。双方とも真赤裸のように記憶している。(長谷川君と余)」とあります。
 
 漱石と四迷が、席を共にしたのは鰻の「神田川」でした。明治41(1908)年に、四迷が朝日新聞露都特派員としてペテルブルグに行くことになり、大阪朝日新聞の鳥居素川と共に会食し、ロシアに出かける数日前に漱石山房を訪れています。
 翌年、四迷は結核に罹り、ペテルブルグから帰国の途につくのですが、5月1日にベンガル湾上で死去しました。
 どちらも好意を抱いていたにもかかわらず、二人は親交を結ぶことはありませんでした。漱石は『長谷川君と余』に「長谷川君はとうとう死んでしまった。長谷川君は余を了解せず、余は長谷川君を了解しないで死んでしまった。生きていても、あれぎりの交際であったかも知れないが、あるいは、もっと親密になる機会が来たかも分らない。余は以上の長谷川君を、長谷川君として記憶するよりほかに仕方のない遠い朋友である」と記しています。
 

 
 四迷は、「神田川」での会食の時、「あすこにしよう、ここにしようと評議をしている時に、君はしきりに食い物の話を持ち出した」と漱石は書いており、四迷の食いしん坊ぶりが垣間見えます。内田魯庵の『二葉亭余談』には「二葉亭には道楽というものがなかった。が、もし強しいて求めたなら食道楽であったろう。無論食通ではなかったが、始終かなり厳ましい贅沢をいっていた。かつ頗る健啖家であった」と書いています。
 
 漱石と四迷の食生活には、いくつかの共通点があります。一つは、どちらも下戸で、酒が苦手でした。
 もう一つは、脂っこいものが好きだということでした。「明神下の神田川まで草臥れ足を引摺って来たのが九時過ぎで、二階へ通って例の通りに待たされるのが常より一層待遠しかったが『こうして腹を空かして置くのが美食法の秘訣だ』と、やがて持って来た大串の脂ッこい奴をペロペロと五皿平らげた(二葉亭余談)」とあります。
 さらに、四迷は甘いものも好きでした。「親しい遠慮のない友達が来ると水菓子だの餅菓子だのと三種も四種も山盛りに積んだのを列べて、お客はそっちのけで片端からムシャムシャと間断なしに頬張りながら話をした。殊に蜜柑と樽柿が好物で、見る間に皮や種子を山のように積上げ、『死骸を見るとさも沢山喰ったらしくて体裁が宜くない』などといいいい普通の人が一つ二つを喰う間に五つも六つもペロペロと平らげた(二葉亭余談)」といいます。
 
 食べ物ではありませんが、さらに共通点があります。四迷は猫を飼っていたのですが、名前がありませんでした。「不思議なことにはこれほど大切に可愛がっていたが、この猫には名がなかった。家族のものは便宜上『白』と呼んでいたが、二葉亭は決して名を呼ばなかった。『名なんかドウでも好い、なくても好い、猫に名なんか付けるのは人間の繁文縟礼(はんぶんじょくれい)で、猫は名を呼ばれたって決して喜ばない』といっていた(二葉亭余談)」そうで、これも飼い猫に名前をつけなかった漱石とよく似ています。ただし、猫の毛の色は白と黒に分かれていますが……。
 
 このような共通点を持つ漱石と四迷。頻繁に会っていれば、さぞ親密になっていただろうと思います。





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最終更新日  2018.06.27 05:55:10
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