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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2018.06.28
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 明治34(1901)年9月27日の『仰臥漫録』には、自らの給与の変遷が記されています。
中田氏新聞社よりの月給(四十円)を携え来る」とあり、日本新聞社から受け取る当時の子規の給与は40円でした。それに「ホトトギス」から10円が支給され、月50円の給与となりました。明治25(1892)年の日本新聞入社時には月給15円。以後は「廿六年一月より二十円。廿七年初新聞小日本を起し、これに関することとなりこれより卅円。同年七月小日本廃刊『日本』の方へ帰る。同様卅一年初四十円に増す。この時は物価騰貴のため社員総て増したる也」とあります。
 当初、子規の描いていた給料は50円でした。「余書生たりしときは大学を卒業して少くとも五十円の月給を取らんと思えり。その頃は学士とりつきの月給は医学士の外は大方五十円のきまりなりき。その頃の五十円といえば今日の如く物価の高きときの五十円よりは値打多かりしならん(仰臥漫録 明治34年9月27日)」と考えていたのです。
 しかし、子規はこの給料に甘んじます。叔父の大原恒徳に送った手紙には「右手紙書き畢らぬところへ陸より呼びに来たり参り候ところ、いよいよ毎日出社のことに相決まり候。しかし別にこれというほどの職業も御坐なく候ゆえ、いやな時は出勤致さずともよろしくと申し候。そのかわり月俸十五円に御坐候。これは陸一人よりいえば大いに気の毒がるところなれども、社の経済上予算相定まりおり候ゆえ、本年中は致し方これなく、来年になれば五円か十円のところはともかくも相なり申すべくと申しおり候。それまでのところ足らねば、自分が引き受け申すべくよし、懇に申しくれ候。……もっとも我が社の俸給にて不足ならば、他の国会とか朝日新聞とかの社へ世話致し候わば三十円ないし五十円くらいの月俸は得らるべきにつき、その志あらば云々と申し候えども、私はまず幾百円くれても右様の社へは入らぬつもりにござ候。(明治25年11月18日 大原恒徳宛書簡)」と記しています。
 

 
さて余が書生時代の学費はというに高等中学在学の間は常盤会の給費毎月七円をもらい、大学在学の間は同給費十円をもらいたり(この頃は下宿料四円位が普通也)されど大学へ入学以後は病身なりしため故郷よりも助けてもらいし故一ヶ月十三円乃至十五円位を費したり(仰臥漫録 明治34年9月27日)」と書いています。ただ、明治25年に小説『月の都』で文壇に躍り出ようと考えたとき、正岡家の財産は破綻寸前でした。明治8年の家禄奉還にともなう一時金1200円を叔父の大原恒徳に管理してもらい、五十二銀行の株配当金や公債の利子で、一家の家計は支えられていました。その財産は、いわば子規の学生時代の放蕩(そんなに大げさではありませんが)により、風前の灯火となっていたのです。
 それを心配した従兄の佐伯政直は、子規の『月の都』執筆のための移転の忠告とともに、正岡家の家計の現状を知らせた手紙を明治25年1月20日に送ります。
 政直はこの中で「貴家の財政上を案ずるに(失敬は御免)別紙の如き計算と可相成と推察」とことわった上で、正岡家の収支を書きしるしています。それによれば、明治25年の収入は銀行株10株より生ずる配当金80円、公債100円の利子6円の合計86円。支出は八重と律の生活費で72円、子規への学資が120円、借入金650円の利子65円で合計257円となっています。正岡家の家計は171円の赤字となっていました。そこで政直は、手持ちの株券を遂次売却して借入金を返済してはどうかと提案したのです。
 子規が「月の都』の執筆に必死になったのは、こうした背景もありました。しかし、小説は出版に至りませんでした。
※『月の都』(にしの子)については​こちら
※『月の都』(焼き芋)については​こちら
※『月の都』(幸田露伴)については​こちら
 
 その顛末を、子規は「然るに家族を迎えて三人にて二十円の月給をもらいしときは金の不足するはいう迄もなく、故郷へ手紙やりて助力を乞えば自立せよと伯父に叱られ、さりとて日本新聞社を去りて他の下らぬ奴にお辞誼して多くの金をもらわんの意は毫も無く、余はあるとき雪のふる夜、社よりの帰りがけ、お成道を歩行きながら蝦蟇口に一銭の残理さえなきことを思うて泣きたいこともありき。余はこの時まだ五十円の夢さめず、縦し学士たらずとも五十円位は訳もなく得らるるものと思えり。されど新聞社にては非常に余を優遇しある也。余は斯くて金の為に一方ならず頭を痛めし結果、遂に書生のときに空想せし如く、金は容易に得らるるものに非ず。五十円はおろか一円二円さえ之を得ること容易ならず。否一銭一厘さえおろそかに思うべきに非ず。こは余のみに非ず、一般の人も裏面に立ち入らば随分困窮に陥りおる者少からぬよう也。五十円など到底吾等の職業にては取れるものならずということを了解せり。金に対する余の考はこの頃より全く一変せり。これより以前には人の金はおれの金というような財産平均主義に似た考を持千足。従って金を軽蔑しおりしが、これより以後金に対して非常に恐ろしききような感じを起し、今迄は左程にあらざりしも、この後は一、二円の金といえども人に貸せというに躊躇するに至りたり」と書いています。学生時代の子規は、金は天下の回り物と考え、自由に生活していたツケが、ようやく回ってきたのです。しかし、愚陀仏庵に身を寄せていた時代、漱石に対しては無頓着な金遣いを要求していますが、これには漱石の給料が月八十円と聞き、これなら甘えてもいいかなと考えたのかもしれません。
 
『仰臥漫録』の最後には「三十円になりて後、ようよう一家の生計を立て得るに至れり。今は新聞社の四十円とホトトギスの十円とを合せて一ヶ月五十円の収入あり。昔の妄想は意外にも事実となりて現れたり。以て満足すべき也」と、我が身の経済がようやく落ち着いたことに安堵し、二つの句を挙げています。
 
   夕顔ノ実ニ富ヲ得シ話カナ(宇治拾遺)
   鶏頭ヤ糸瓜ヤ庵ハ貧ナラズ
 
拝啓 時冱寒に候処愈御消康之趣奉賀候。当地も昨今は珍敷時々吹雪あり。積むこと三寸許、今日の午後漸く道路の雪相消候程なり。貴地も定て烈寒に有之別而感冒御用心専要に奉存候。さて前日も詳細に御報道被下候処、その後大原尊叔ともしみじみ御談致候間合も無之。その内大原叔には両三日中御出立東上被成、小生も本日出発上の筈(風波のため一日延)藤野叔には未だ御着松無之。旁御相談等の運に不至。乍然野生貴家の財政上を案ずるに(失敬は御免)別帋の如き計算と可相成と推察致候。付ては自今毎月十五円宛の学資送付は何分にも大蔵省の支出難整、強てこれを送付するときは貴君御卒業と資産の○に帰すると同時と可相成ト存候。もっとも御卒業後、直に歳費収入の途相立候ば、○に帰するもいささか頓着無之儀なれども兼ねがねと御噂の如く、直に一身を売り田舎へ引込ことも御厭また買人の有無も難斗左候えば、その後一ヶ年二ヶ年間位は一家凍餒を免るの謀は必要と被存候。依て愚考するに一ヶ月十円以内の学資にて可及丈一身の摂養と大学の課題を欠かざることとし、一先卒業の後に於て後半分の著述を終える御計画被成候外は有之間敷と存候。御申越の支出予算案は野生民党より如何に切込んとするも御一身の摂養及勤学に必要のもののみと被存、削減を施さんとするの条項を見出さず。書籍雑誌の類購求はもっとも必要かつ著述(追ってにもせよ)に欠くべからざるものとは存候得共、如何せん財政の許さざる施なれば、その購求は暫く御忍有之候外なし。而して今回の御転寓一戸御借入も右著述のためなれば御再考可有之、一身御摂養のためなれば既定の歳出と一般容易に削減をなすべからざる儀と存候。また学資の送付も毎月五円とか十円とか一定超過すべからざるの額を定め置き、途付のことと不相成、而ば送金上しばしば尊叔に於ても御困難之事有之候に付、この際その額をも決定置可然と存候。
 目下小生に於て両尊叔へ御相談致さんとするも、前陳の件に先貴君の御諾否を不承候ては、相始らざることに付御賢考の上重而、何分の御報相煩度。もっとも大原尊叔御東上に付、万瑞親敷御協議相成候えば無比上事に付、別に御報道を煩にも不及。精々御勘考被下度候。先は要用而已。匆匆拝具。
 
   一月廿日夜認      政直
   常規様
 
   廿五年中収入予算
   収入之部
 一、金八拾円  銀行株十より生る配当金
 一、金六円   六分利公債百円の利子
  〆八拾六円
   支出ノ部
 一、金七拾二円 北堂令妹一ヶ年中ノ食料諸雑費(月六円)
 一、金六拾五円 御借入金六百五十円に対する一ヶ年利子(年一割ノ利)
 一、金百二十円 学費(一ヶ月十円宛)
   小計 二百五十七円
  差引百七十二円不足に付借入
 
 一、金八円 前不足金借入に対する凡六ヶ月分利息
   支出総計 二百六十五円
   不足額   百七十九円
   負債額 九百十五円
   利子額  七十三円
               廿五年十二月末
 
右之通にて押行ときは廿六年度は今一層の困難となるべし。よってこの際、所有株等売却、負債を償却して利息を払わざることとなし、而して漸次基本財産売却金を以て数年
間を経過する外無之ことと存候。今日之を処分するときは左の如し。
 一、金六百六十円 銀行株五株売却代
 一、金百三円   公債証書百円売却代
 〆七百六十三円
  内
  金六百五十円 負債償却
 差引残百十三円
 一、金百十三円 在金
 一、金二十円  五株に対する七月配当金
 〆百三十三円
 一、金四十八円 一家入用 八ヶ月分
 一、金八十円  学資八ヶ月分
 一、金五円   臨時費
 〆百三十三円
 差引○
  右ニテ廿五年二月より九月迄済
 一、金百三十二円  廿五年十月売却銀行株一枚代
 一、金十六円 廿六年一月から四株配当金
 〆百四十八円
 一、金百四十八円 前例により九ヶ月中消費
   右にて廿六年六月迄済
 一、金百三十二円 廿六年七月銀行株一枚売却代
 一、金十六円 七月銀行配当金四株分
 〆百四十八円
   金三十六円 松山一家諸費六ヶ月分
   金百十二円 貴君卒業後凡六ヶ月の費用
  差引○ 廿六年中済
 残り財産 銀行株三枚
      住家 一棟
 右之通と相成趣に被存候。(明治25年1月20日、佐伯政直から子規への手紙)





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最終更新日  2018.07.17 05:38:08
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