土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

2019/01/01(火)10:19

子規の『新年二十九度』にみる正月の風俗/新年二十九度

正岡子規(931)

   正月の支度にいそぐ師走哉(明治25)   正月の物あはれなり傀儡師(明治26)   正月は浮世に出たり猿まはし(明治26)   うれしさの過ぎぬ正月四日なり(明治28)   一年は正月に一生は今に在り(明治30)   正月や餅ならべたる佛の間(明治33) 『新年二十九度』は、子規が生まれてから明治29年までの正月の思い出を綴ったものです。その中には、当時の風俗や風習が出てきます。  天地渾沌として未だ判れざる時、腹中に物あり。恍たり惚たり、形海鼠の如し。海鼠手を生じ足を生じ両眼を微かに開きたる時化して子規と為る。なお鶯のかい子のうちにあり。余が初めて浮世の正月に逢いたるは慶応四年なれば、明治の新時代は将に旧時代の胎内を出んとする時なりき。その時の余は余を知らず。況して四囲の光景は露知らざりしも、思えばきわどき年を重ね初めたるものかな。 その後の新年も大方は夢の中に過ぎぬ。廃藩置県といい、太陽暦採用といい、世人が胸騒がしき正月を迎えたらん頃はまだ知らぬ仏なりき。六、七歳の頃より後は、節季と正月をただ面白きものとのみ覚えたり。これ余が世の中に対して利害の念を起こしたる初めなり。節季は餅搗、煤払より門松を樹(たて)て輪飾に𣜿葉(ゆずりは)、田作、橙、炭などを縛りつくるまでいずれか面白からぬはなく、婆殿の側にて余念なくこれを見いりたり。この時ただ恐ろしきものは節分の日の赤鬼なりき。門の外につつ立ちて竹のささらを突き嗚らし「鬼にもくれねば這入ろうか、這入ろうか」とおらびたる時は膽魂も一時に消ゆる心地して、もし這入り来らば如何にしてましと独り胸騒ぐ時お多福は鬼を制して「鬼は外におれ、福が一処にもろてやろ」と自ら玄関まで来り「御繁昌様へは福は内、鬼は外、福々福入り入り福入り」という。この時遅しと待ち構え、切餅数個を持ち出でて、お多福に与うれば鬼もお多福もかたみに打ちささやぎつつ往ぬめり。あとには恐ろしき者もなければ、おのが年の数を豆に数えて紙に包みなどす。婆殿の豆の七十にも余りたることの羨ましく、おのれの年の十にも足らぬは本意なき心地せり。その夜厄払いを呼びてその豆を与えなどせしは十一二歳の頃までにて、その後は厄払いというものも来ずなりにけり。 まして正月は嬉し。元日は北風の寒さもなかなかにめでたき心地して、短き袴着け尺ばかりの大小をさしたるも我ながらいみじ。三が日も過ぐれば十ばかりの子供つれだちて門々の飾りの橙を取ることこの頃の流行なり。余も人の後につきて行けば、中には小さき鎌もて橙を伐り落としなどする者あり。たくみに偸むこともいと羨ましく覚えぬ。かくて盗み取りたる橙は、橙投げとて道中に立ちて両方より投げつ止めつするほどに五つ六つの橙皆つぶれてまた偸みにと出で立つ。またある時は家々の飾りをもらい集めて二、三十ばかりを抱え、野外れへ持ち出るでてこれを焼く。この時おのおの切餅二、三個を袂にし行き、これをどんどの中に入れおけば真黒になりて焼けたるを灰の中より掘り出でて喰う。凧揚げて遊ぶ者多かれど余はあまりこれを好まざりき。全て戸外の遊戯はつたなき方なりければ、内に籠り居て独り歌がるたを拾い、こよなき楽みとせり。この時代は何事もただ興あるごとく覚えし時代なりき。(新年二十九度)  鬼が家々を訪れるというのは、「門付け」の一種です。「門付け」は、ほとんどが賎民によって行われ、異形の神が家々を訪れて福を運ぶという一種の「まれびと」信仰に負ったものでした。「祝言人(ほかいびと)」が、戸口に立って祝い事を述べて、いくばくかのお金を乞いました。神社で雑役を行っていた下級の神人たちが、神社のお札を配って歩いたのが原型だと思われますが、のちに芸能化して「万歳」や「人形(でこ)回し」「傀儡」「猿回し」「鳥追」「大黒舞」「春駒」などが家々を訪ね歩きました。     山本冨次郎さんの『ふるさと歳時記』に、このお多福のことが載っていました。  わが郷土松山の風俗として、正月の祝人(ほかいびと)、初春をことほぐ色々な門付、いわゆる物貰い芸人が、この新旧正月の前後から節分にかけて頻りにやってきよったものだ。例えば、夷子廻し、猿引き、獅子舞、大黒舞、万才等々、なかんずく俗称『お福』という一団こそ最も珍奇なものの一つであったといえる。これらは明治時代の松山正月ーいま思い出しても嬉しく愉しい風習のあれこれーー。 この『お福』は、正月には女の二人連れ、節分には男女二人連れ、女は大抵伊予絣の着衣に手甲脚絆で、からげた裾の端からはチラチラ赤水色の腰巻なぞのぞかせて、白たびに草鞋または藁草履ばきのいでたちーー。おなじみのお多福面を前頭部に頂くように豆しぼりの手拭で頬かむりをしている、お面の下から本物の鼻が見え隠れして見える。 男の場合、顔一面を赤く塗るとか、または鬼の面を手拭で大きくかむり、片手には六尺の長さの竹のササラを大地に突き立て、縄の鉢巻の両端を二本の角になぞらえて、玄関の入り口脇に大き<立ちはたかっているという、いでたちである。 先ずお福が玄関をぬっとはいって来ると、日の丸の扇子なんかをパッと開いていきなり節面白く謡い始め、踊り始めるのである。「(コトバ)アアラめでたや、めでたや、西の宮からお福が舞い込んだ。ーーおめでとう様にはお庭ならしに一トはやし……。(唄)めでーた、めでーたの若松さまよ、枝も栄える、葉もしげーる、アラリャン、リャン、コリャ、リャンリャン(コトバ)この家の旦那はお大黒、奥様お夷子、五穀豊穣、お家繁昌万々歳……」 とかなんとか手拍子おかしく踊りを繰りひろげ、ご祝儀づくめの唄の文句で舞い納めるのであるが、サテ今度は急に言葉の調子を改めて曰く、「おカチン(お餅ー松山方言)はいがんでも(形が曲っていてもー方言)大けいの(大きな方)がよろしゅう……」とソコで一旦声をひそめておいて、続けて"ホホ……“と口を挿えてはずかしそうなそぶりで扇子を拡げて差し出す。そこで家人はお餅やお米または小銭などを施してやると、予てから背中に斜かいにぶら下げていた袋にこれを納めるのだが、サテこれからが面白い。この時まで、門外にたち家内の様子を窺っていた赤鬼が突然大声でおらび(叫ぶコト)出すのだ。「鬼にもくれんと這入ろうか、這入ろうか」 と二、三度大声で叫び出す、すると例のお福が驚いた様子で手にした扇子で鬼をなだめる仕草をして曰く「おお、おお、鬼は外で待っとれ、待っとれ、お福が代りに貰うてやるけんの……」 と呼ばわりながら、お福は再び扇子を拡げて取って返し、鬼への配分たる餅や米銭を改めて家人に促がし求めんとするのである。かくて御祝儀の施し物を再びセシメルのであった。 予め"お福と鬼"とは共同謀議作戦であったのだから、施主の方はたまったものじゃない。かくてシコ夕マ施し物を貰った二人は、おのおの大きな袋をさも重たげに次の家から家へと、戸毎に定紋入りの帳幕をくぐって廻ってゆくのであった。  子供たちがお飾りのダイダイを盗むことは、三が日が過ぎてからの遊びです。子規の句に「正月や橙投げる屋敷町(明治29)」というのがありますが、その詞書に「われおさなくて郷里松山にある頃、友二、三人ずつ両方に分れ、橙を投げあそびて、そわある限りのうちにとどめ得ざりし方を負けとする遊びあり、橙投げとぞいえる正月の一つの遊びなりけるを、今は去ることも絶えにけん」とあります。 妹の律から見た幼い日の子規は「泣き虫であった兄は、また弱虫で、あの時分の遊び、凧をあげた事もなし、独楽を廻すでもなければ、縄飛び、鬼ごっこなどは、まして仲間にはいったこともありますまい。どうかして表へ出ると、泣かされて帰る(家庭より観たる子規 正岡律子)」といった有様で、外に出るよりも、カルタを好んだようです。 ※子規と新年二十九度のもう少し年齢を重ねた頃(2018/1/3)は​こちら​

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