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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.05.16
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カテゴリ:夏目漱石
 
   三十六峰我も我もと時雨けり  漱石(明治28)
   病む人に鳥鳴き立る小春哉  漱石(明治28)
   朧故に行衛も知らぬ恋をする  漱石(明治29)
 
 漱石は、予備門時代にトラホームを患いました。
『私の経過した学生時代』には、中村是公と塾の講師のアルバイトをしていた「江東義塾」の環境が悪く、湿気が多いためにトラホームにかかってしまったことが書かれています。漱石はこれを20歳頃(十九歳頃+約一年ばかり)のことと書いていますが、「予科の三年」だとすると21〜22歳頃の記憶違いでしょう。ただ、江東義塾は明治19年の9月に解散し、明治20年11月に回向院裏で再び開学していますから、解散したと書いているところから19歳後半の出来事だったかもしれません。
 
 ちょうど予科の三年、十九歳頃のことであったが、私の家はもとより豊かな方ではなかったので、一つには家から学資を仰がずに遣って見ようという考えから、月五円の月給で中村是公氏と共に私塾の教師をしながら予科の方へ通っていたことがある。
 これが私の教師となった始めで、その私塾は江東義塾といって本所に在あった。ある有志の人達が協同して設けたものであるが、校舎はやはり今考えて見ても随分不潔な方の部類であった。
 一カ月五円というと誠に少額ではあるが、その頃はそれで不足なくやって行けた。塾の寄宿舎に入っていたから、舎費即ち食糧費としては月二円で済み、予備門の授業料といえば月僅かに二十五銭(もっとも一学期分宛ずつ前納することにはなっていたが)それに書物は大抵学校で貸し与えたから、格別その方には金も要らなかった。先ずこの中から湯銭の少しも引き去れば、後の残分は大抵小遣いになったので、五円の金を貰うと、直ぐその残分だけを中村是公氏の分と合せて置いて、いっしょに出歩いては、多く食う方へ費してしまったものである。
 時間も、江東義塾の方は午後二時間だけであったから、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜などは無論落ち附いて、自由に自分の勉強をすることも出来たので、何の苦痛も感ぜず、約一年ばかりもこうしてやっていたが、この土地は非常に湿気が多いため、つい急性のトラホームを患った。それがため、今も私の眼は丈夫ではない。親はそのトラホームを非常に心配して、「兎に角、そんな所なら無理に勤めている必要もなかろう」というので、塾の方は退き、予備門へは家から通うことにしたが、間もなくその江東義塾は解散になってしまったのである。(私の経過した学生時代 6)
 
 
 この眼科は、明治14年に神創設された「井上眼科病院」で、神田駿河台のニコライ堂近くにあります。院長の井上達也は、当時、東京大学医学部助教授を務めており、当時の先端の治療を行なっていました。当初は「済安堂医院」と呼ばれており、明治23年には煉瓦造り4階建ての建物になり、最新設備を備えた病院となりました。井上眼科は今も営業しています。
 漱石は『処女作追懐談』で「何故というのに、困ったことには自分はどうも変物である。当時変物の意義はよく知らなかった。しかし変物を以て自ら任じていたと見えて、とても一々この方から世の中に度を合せて行くことは出来ない。何か己を曲げずして趣味を持った、世の中に欠くべからざる仕事がありそうなものだ。――と、その時分私の眼に映ったのは、今も駿河台に病院を持っている佐々木博士の養父だとかいう、佐々木東洋という人だ。あの人は誰もよく知っている変人だが、世間はあの人を必要としている。しかもあの人は己を曲ぐることなくして立派にやって行く。それから井上達也という眼科の医者が矢張駿河台にいたが、その人も丁度東洋さんのような変人で、しかも世間から必要とせられていた。そこで私は自分もどうかあんな風にえらくなってやって行きたいものと思ったのである」と紹介しています。石井研堂著『明治事物起原』にも初期の病院として井上眼科病院は挙げられていて「井上達一が、明治十四年開くところにて、東京神田東紅梅町にあり。達一歿し、息七郎嗣ぐ」とありますが、名前を逹一と間違えられています。また、達也の死は散歩の折に愛馬が横転したために落馬し、馬の下敷きになって複雑骨折したためで、享年46でした。
 
 妻の鏡子も井上眼科で見かけた女性の話を漱石から聞き、漱石の淡い恋慕の情を語っています。
 
 話の順序として結婚前のことからお話しいたしましょう。申すまでもなく結婚前のことが私にわかろうはずはないのですが、結婚後本人の口から聞いたことや、他の方々から伺ったことなど照らしあわせて、記憶に残っていることをかいつまんでお話しいたしましょう。
 当時夏目の家は牛込の喜久井町にありましたが、家が流祭とかで、小石川の伝通院付近の法蔵院という寺に間借りをしていたそうです。たぶん大学を出た年だったでしょう。その寺から、トラホームをやんでいて、毎日のように駿河台の井上眼科にかよっていたそうです。すると始終そこの待合で落ちあう美しい若い女の方がありました。背のすらっとした細面の美しい女でーーそういうふうの女が好きだとはいつも口癖に申しておりましたーーそのひとが見るからに気立てが優しくて、そうしてしんから深切でして、見ず知らずの不案内なお婆さんなんかが入って来ますと、手を引いて診察室へ連れて行ったり、いろんなめんどうを見てあげるというふうで、そばで見ていてもほんとに気持ちがよかったと後でも申していたくらいでした。(夏目鏡子 漱石の思い出 1 松山行)
 
 トラホームの治療には長い時間を要したようで、明治24年7月18日に漱石から子規宛に送った手紙にもこの恋慕が書かれています。「天気予報なしの突然の邂逅」という言葉を捉え、約束した邂逅があったはずで、この眼科で出会った女性が誰だったかを推理した説も巷間にあふれました。例えば、大塚楠緒子説の小坂晋氏・加藤湖山氏、日比野れんだという石川悌二氏、花柳界の女性だという宮井一郎氏、陸奥宗光の娘・清子だとする荻原雄一氏。
 僕は、完全な漱石の片思いで、おそらく話をしたこともなく、遠くから眺めていたのではないかと考えています。に「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」といわれた『三四郎』のように……。
 
 ええと、もう何か書くことはないかしら。ああそうそう、昨日眼医者へいった所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね。ーー〔銀〕杏返しに竹なは(=丈長=髪飾り)をかけてーー天気予報なしの突然の邂逅だからひやっと驚いて、思わず顔に紅葉を散らしたね。まるで夕日に映ずる嵐山の大火の如し。その代り君が羨ましがった海気屋(=神田の甲斐絹屋)で買った蝙蝠傘をとられた。それ故今日は炎天を冒してこれから行く。(明治24年7月18日 正岡子規宛書簡)
 
 小宮豊隆は『知られざる漱石』で漱石の目について書いています。もちろん、初恋のエピソードは除かれています。
 
 先生は学生の時分から眼が悪かったとみえて、手紙などによく眼病のことが出て来る。その病気がどういう病気だったのか、精確(=正確)には分からない。後年、我我が出入しだしてからでも先生は、よく書斎の絨氈の上にごろりと仰向けに寝て、自分で眼薬をさしていた。それが大学目薬であることもあれば、医者からもらった目薬であることもあった。恐らくそのせいに違いない。先生の白眼はいつでも充血していて、白く澄み切つていることがなかった。『猫』の中の猫は、苦沙彌先生の眼を評して、「もっとも平常からあまり晴れ晴れしい眼ではない。誇大な形容を用いると、渾沌として黒眼と白眼が剖判しない位漠然としている。彼の精神が朦朧として不得要領的に一貫している如く、彼の眼も曖々然昧々然として長しえに眼窩の奧に漂うている。これは胎毒のためだともいうし、あるいは疱瘡の余波だとも解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤蛙の厄介になったこともあるそうだが、折角、母親の丹精も、あるにその甲斐あらばこそ、今日まで生れた当時のままでぼんやりしている」といっているが、それほどではないまでも、慢性結膜炎だかなんだか、先生の眼が濁つていたことは確かだった。
 しかし先生の眼は、それだからといって「瞹々然昧々然」として、うすぼんやりしていたのではなかった。先生の眼は、先生が癇癪を起している時、集中して物を考えたり書いたりしている時、きっとなった時、そういう時に行き合せようものなら、爛々と人を射て、淒かった。たしか芥川龍之介がそういう時の先生を、獅子が鬣を振った時のようだと形容していたと記憶する。その趣は勿論先生の眼から来た。そのくせ先生の気持の和んだ時、先生の気持の嬉しい時、楽しい時、先生の眼は実に愛に充ちた眼になった。先生の眼は、先生の心を実によく映し出した。先生が中村是公と十何年振りかで会うというので、当時の新橋駅に迎えに行ったことがある。是公がその時プラットフォームに出て来て、自分を見た時の眼が、なんとも言えない嬉しそうな眼だったと先生はいっていたが、そういう他人の眼の表情を喜んでしっかり記憶するだけそれだけ、先生の眼からも、巨細に先生の心が迸り出たのである。一重瞼の眼は、何か陰険な気がして嫌いだと先生はいっていたが、これは必ずしも陰険とは限らなくても、とかく一重瞼の眼は表情に乏しい、表情に乏しいから何を考えているか分らない、それが厭だというのだったろうと思う。(小宮豊隆 知られざる漱石 漱石先生の顏)
 
 漱石の目が濁っていたことは、妻の鏡子も語っています。「それでも、若い時にトラホームを病んで、それから慢性の結膜炎をやって時々目薬をさしたりはしてましたが、元来目性がよかったとみえて、晩年になって老眼鏡をかけるまで、眼鏡というものはかけたことがございませんでした。ずっと後のこと、人相を見る人から、眼が三白眼でどうだとか言われて自慢していたことがありましたが、瞳と白味のところが少しぼかされて濁っているようでした。(夏目鏡子 漱石の思い出 23 「猫」の家)」とあります。






最終更新日  2019.05.16 19:00:07
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