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うつくしき菓子贈られし須磨の秋(明治28) たらし髪羽子遣るあこに菓子やらん(明治32) 菓子箱をさし出したる火鉢哉(明治33) 明治33(1900)年9月に始まった「山会」は「文章には山がなくては駄目だ」という子規の言葉から名づけられた文章会で、即興で文書を作るものではありませんが、俳句の運座のように出された文章を読み上げ、互いに批評しあうというものでした。「山会」のコンセプトとは赤城格堂が『子規夜話』の「文章の山」で書くように「よく文章の山ということをいわれた。山というのは何の意味ですと尋ねたら、山は山だ、文章の中に善い山を築くのだ。大きな山なら一つで良い、小さい山でも数ありゃ良い、山がなけりゃ文章じゃない。山を見付けて文章を書かなけりゃ、無駄だといわれた。文章会のことを山会と称せられていたのはこの訳である」というものでした。 坂本四方太は『写生文の事』で「僕が初めて文章を子規子に見てもろうたのは、明治三十二年の春であったと思う。鎌倉紀行を書いて子規に出すつもりであったところが、子規子はこれでは土台文章になっておらぬという表を下された。僕はこの機構はよほどねって書いたつもりであったので、文章になっておらぬなどと言われては腹が立ってたまらない。大変な勢いでもってがなり込んだ。今考えると実にはずらしい次第で、文章はどんな風に書くものだという標準は毫末も立っていなかった。子規子などは多年の収容と練磨があるから僕の立腹などはよほど滑稽に見えたらしかった。一句一句はよほど苦心してあるようだが、どうも全体に山が一つもないからいかんということを、噛んでくくめるように説明された。サア分からない、山というのは何のことだか一向に分からない」と書いています。 当初、四方太は文章における山という子規の理論がわかっていませんでした。 子規の文章に対する考え方は「このころから明治の美文は明治の絵画、あるいは明治の俳句と同様に写生でやらなくてはいかん、写生をやるには言文一致でなくてはいかんという説を抱いておられたので、僕に限らず『ぞる』『こそけれ』で書くと、とにかく気に入らなかった。これはいまさらいうまでもなく子規子の卓見で、こんにち我派の写生文が盛んになったのも、実にこの日に胚胎している。俳句における子規子を謳歌するものは数多あるが、子規子の写生文における偉功をたたえる人はたんとない。しかし俳句の子規子を謳歌するというても、ただ尻馬に乗ってワーワー騒ぐ連中が多くて、真に子規子の特色を知る人は至って少ないのだから、写生文の功績を認めることが少ないからとて決して悲しむに足りないのだ(写生文の事)」とその功績を称えています。 明治32年11月22日に第一回文章会が開かれ、四方太に「只今拙宅に虚子青々来会。文章会を開き、ふき膾を饗し候間、日の暮れぬうちに宙を飛んで御出被下度候」という誘いの手紙が届き、四方太はまさに空を飛ぶ気分で出かけたのでした。 11月29日の四方太宛の手紙には、この時の文章会のことが書かれています。22日の子規庵での出来事を文にして「ホトトギス」に掲載するという『根岸草廬記事』の企画があり、四方太はその文章を子規のもとに届けていました。その文の正否も、ここには書かれています。 四方太君 闇汁会も面白かったが、先日の僕の内の会(=文章会)はまだ面白かった それは僕寝たままで諸君を労したからでもあるが、原因はそれ一つじゃ無い。あの日、虚子に障子あけてもろうて、庭の鶏頭の色がうつくしかったのを見て、天へ登りたいような心持がして、その色が今に忘れられぬのを見ても、当日の僕の喜びが何等かの原因によりて極度に刺戟せられていたことが分る。内部に喜びがあると、それが一々外部に反応するもので、当日のことは何でも嬉しくないものはない。ふき膾でも、柚饅でも、陳腐な茶飯でも、それが客に嫌われるに拘らず甚だ嬉しい。雑話も一々面白い。五目並べをやったことももっとも面白い。こんなに面白く嬉しいというのは滅多に起る現象ではない。さてその原因というは、自分即ち内部に関するものと、君たち即ち外部に関するものとの二つある。僕にいくらか同情をよせらるる当日の「うれし会(=文章会)」の会員にこの原因が分らぬことはあるまいと思う。 その日はうれしかったが、まだ嬉しさが足りない様な心持がする。すると翌々日、君は突然と僕の蒲団の上に顔出した。それも嬉しい。すると烟草の筥(はこ)から西洋菓子が出た。最うれしかった。これが「うれし会」の一日置いて次の日であったのも面白い。それを持て来た人が木綿着物の文学士であったのも面白い。シューだとかフランスパンとか、花火の音見たような名を聞きながら喰うたのもうれしかった。これを柚饅会の迎え菓子とでも称して、これで余波が尽きたとする。しかし僕の心ではまだ余波があってもいいようだ。 それから四五日すると君の手紙が来た。例の記文だ。それが「うれし会」の記であるけれど、直に披いて読む気にはならなんだ。それは読んで見て不愉快を起すと困るからだ。君の文を見て不愉快を起した例は幾度もある。僕が不愉快になった結果は、いつでも君を不愉快にしたのだから君の記臆に一々残っているであろう。それで先ず今朝見残しの新聞を読んだ。晩飯を喰った。また新聞を読んだ。雑誌を読んだ。しかして後に思い出して君の文を読んだ。 実に面白かった。 ただの一ところも不愉快な処はなかった。今までの文の山があっても、覚束ないよろよろとしているのは違う。大山は無いけれど却て面白い。もーたしかだ。これが余波の余波の喜びじまいだ。 明治卅二年十一月廿九日夜 規 ただ、この後の観ものはこの文がどこまで変化を逞うするかということだ。 四方太の文章は合格でした。そして、24日に子規の病床に届けたシュークリームやフランスパンも子規の心に届いています。子規は、シュークリームがとても気に入りました。明治33年11月30日に行われた煖炉の据え付け祝いで、岡麓に洋菓子を買って来させたのですが、そこにシュークリームがなかったことを残念に思った子規なのでした。 ※岡麓のシュークリームエピソードはこちら
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最終更新日
2019.05.23 19:00:06
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