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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2019.07.18
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カテゴリ:正岡子規
   沢亀の万歳見せう御国ぶり(明治29)
   めでたさに春風吹くや御首途(明治30)
   君います空のいらかや青嵐(明治31)
 子規の家は、松山藩士の家系だけに、旧藩主の久松定謨とは幾らかの関係があります。定謨は、旗本松平豊後守勝実の三男・鋹三郎で、十六代藩主・定昭に子供がないことから久松家を継ぎました。慶応3年9月9日生まれなので、子規と同い年になります。
 定謨は、明治16年にフランスに留学しますが、この時に随行したのが子規の叔父・加藤拓川でした。明治20年、定謨はサンシール陸軍士官学校に学びます。このサンシール陸軍士官学校には秋山好古も学んでいました。やはり子規の叔父・藤野漸は久松家の家令で、軍事補導役に狙いを定めていた仙波太郎に断られたため、秋山好古に頼見ました。好古は陸軍を休職し、自費留学のかたち(もちろん費用は久松家から出ました)で渡仏しています。
 明治22年、サンシール陸軍士官学校歩兵科を卒業して、大日本帝国陸軍歩兵少尉に任官。翌年にはフランス陸軍のツール歩兵第66連隊で勤務しています。明治24年に留学を終えて12月に帰国し、近衛歩兵に入ります。
 
 明治17年、子規は久松家の運営する常盤会の第一回給費生に選ばれます。子規は明治21年に著した『半生の喜悲』に「余は生れてよりうれしきことにあい、思はずにこにことえみて平気でいられざりしこと三度あり。第一は在京の叔父のもとより余に東京に来れという手紙来りし時。第二は常盤会の給費生になりし時。第三は予備門へ入学せし時なり。第一は数月前より遊思勃としてやまず。機会あらば夜ぬけなどせんと思いし処なればなり。第二は出京已来食客にはいりこまんと方々のしらぬ人の処へいやながら行きしこと多く、それがため安心して学問出来ざりしその時にこの許しを得し故なり。第三はとても力足らぬ故、入学は出来ずと思いいし故なり。また生来もっともいやと思いしこと、即ち覚えず顔をしか飯こと二度あり。一は出京の際始めて三津を出帆する時にて、始めての旅といい、つれはなし。実に心細く思いたり。第二は予備門にて落第せし時にて、これは兼て覚悟ありたれども、生れて小学校に入りし已来始めての落第といい、殊に親類の者などより叱られたればなり」と書いています。
 明治25年大学を中退するまで8年の長きにわたって給付され、子規は心おきなく勉学をつづけ流ことができました。もちろん、食べ物に贅沢することができたのも、この給付金のおかげでした。
 

 
 明治19年の夏、子規は松山藩13代藩主・松平(のちに久松)勝成の子の定靖の日光漫遊に従い、伊香保・榛名などで二カ月にわたるぜいたくな旅行を楽しみました。定靖は、勝成が側室との間に生ませた子で、この旅は勝成も随行しています。
 また、定靖は23年ころから常盤舎に住み、子規らとともに野球を楽しこともありましたが明治31年にこの世を去りました。子規の決めたベースボール番付には、定靖は東の前頭筆頭で「御手つきいとなまめきて物なれたたる風情也。御上達遠きにあらざるべし」と評されています。また、「獺祭書屋日記」には明治25年11月26日「非風来。共到常盤会寄宿舎。与小川、天岸三氏低声吟謡曲。定靖君また在団欒中。 大名の小声にうたふ小春哉」11月28日「定靖君、小川、天岸三氏来吟謡曲 公達の御成の小家や帰り花」と定靖の名が書かれています。
※伊香保・榛名の旅は​こちら
 
 子規が従軍記者として日清戦争の取材に出た時、子規が広島に滞在中、定謨から刀を賜わったり、定謨の送別会に列したりしています。3月30日、拝領した刀とともに子規は紋付袴姿で写真を撮りました。写真の裏には「明治二十八年三月三十日撮影。正岡常規二十八歳の像なり。常規まさに近衛軍に従い、渡清せんとすゆえに撮影す」と書かれています。子規は、定謨と同じ御用船海城丸に乗船しますが、待遇は月とスッポンで、子規は食事や部屋の狭さに不満を表しています。
 金州に上陸してのち、明治28年5月2日には、金州第一の割烹店「宝興園」でご馳走に預かり、子規は「行く春の酒をたまはる陣屋哉」の一句を残しています。
 この後も定謨との交流は続きました。冒頭の句は、芝・紅葉館で催された宴席で詠んだもの、次の句は「征台記念」と題し「拝領の盃屠蘇を酌み初めぬ」との詞書があり、最後の句は「久松家新築落成」として詠んだものです。





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最終更新日  2019.07.18 18:59:47
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