土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

2019/07/26(金)19:03

子規の塑像03/原安民+殿堂のレリーフ

正岡子規(931)

   病人の顔出す窓や春の風(明治31)   小坊主や花見の供のひもじ顔(明治32)   避暑さきや行逢ふ人の見知顔(明治32)  神奈川県大磯の鴫立庵には子規のレリーフが、展示されています。鴫立庵は 香取秀真の『正岡先生の塑像』には「子規庵には先生の肖像が三つ遺されている。ーつは先生自作の陶土製の首。一つは私の作った石膏の床上像、一つは作者不明(恐らくは原安民か)の世に広く知られた写真にある半面像の薄肉製のもの」とあり、作者不明でしたが、のちに原安民が作ったものと判明しました。  原安民は、大磯の旅館「宮代屋」を営む川崎家に生まれましたが、女子美術学校出身の原千代と結婚するにあたって養子になります。香取秀真とともに東京美術学校(現東京芸大)鋳金料第一期生で、画家の横山大観や下村観山、菱田春草らと学び、岡倉天心を師と仰ぎました。書画の鑑定、美術評論に長じ、天心が創立した日本美術院で明治38年刊行の「日本美術」の編集をまかされ、明治から大正にわたり日本美術社社主となります。妻の千代とともに俳句を嗜み、昔人という俳号を名のりました。※子規の枕元にあった安民の蛙は​こちら​     子規のレリーフは、近年になってもつくられています。 新しいところでは、平成29年10月24日に第14回囲碁殿堂入りに子規が選ばれ、顕彰レリーフがつくられて「囲碁殿堂資料館」に展示されています。子規は、松山藩儒学者出会った祖父・大原観山から囲碁の手ほどきを受けたといい、多くの漢詩や俳句、随筆などに囲碁に関する作品を残しています。平成29年は子規生誕150年に当た理、そのために殿堂入りしたのでした。松山城の麓にある「萬翠荘」の庭園には、子規と観山が囲碁に興じたという庭石が置かれています。    淋しげに柿食ふは碁を知らざらん(明治31)   碁に負けて忍ぶ恋路や春の雨(明治32)   真中に碁盤据ゑたる毛布かな(明治33)  平成14年、子規は野球殿堂入りを果たしています。明治23年、子規は帰郷の折に松山中学の生徒へベースボールを伝えたといい、『松蘿玉液』の中でベースボールのルール、用具、方法などについてくわしく解説しています。子規のレリーフは、東京ドームにある野球殿堂に飾られており、「野球を題材とした短歌、俳句を数多く詠み「野球(のぼる)」の雅号も使った文豪」として紹介されています。    久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも   今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな  また、明治22年に書いた『水戸紀行』には、水戸公園でベースボールに行ずる子供たちの姿を描写しています。  ここより路を転じて水戸公園常盤神社に至り、左にいずれば数百坪の芝原平垣にして毛氈の如し。左は十間許りのがけにして、このがけの下は直ちに仙波沼なり。この沼には限らず、この近辺には沼多し。沼の水は深くはあらざれとも一面に漲れり。こは灌漑の用に供するために、今より水門を閉じてたくわえおくによるものにて、さなき時は水乾れてきたなしとぞ。
 かの芝生の上にて七八人の小供の十ばかりなるがうちむれて遊びいたり。何やと近づき見ればベース、ボールのまね也。ピッチャアあり、キャッチャアあり、ベース、メンあり。ストライカーは竹を取りて、毬(女の持て遊ぶまりならん)を打つ。規則十分にととのわずとはいえ、ファヲル、アウト位のことを知りたり。(水戸紀行)

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