2483864 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

aどいなか

aどいなか

カレンダー

バックナンバー

2024.03
2024.02
2024.01
2023.12
2023.11

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

ぷまたろう@ Re:子規と木曽路の花漬け(09/29) 風流仏に出でくる花漬は花を塩漬けにした…
aki@ Re:2023年1月1日から再開。(12/21) この様な書込大変失礼致します。日本も当…
LuciaPoppファン@ Re:子規と門人の闇汁(12/04) はじめまして。 単なる誤記かと拝察します…
高田宏@ Re:漱石と大阪ホテルの草野丈吉(04/19) はじめまして。 大学で大阪のホテル史を研…
高田宏@ Re:漱石の生涯107:漱石家の書生の大食漢(12/19) 土井中様 初めまして。私は大学でホテル…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2020.01.04
XML
カテゴリ:正岡子規
 明治26年7月19日、子規は、奥州に旅立ちます。約1ヶ月続くこの旅は、この年の7月23日から9月10日まで、21回にわたり『はてしらずの記』として、「日本」新聞に連載されました。
 この旅の目的は、松尾芭蕉の『奥の細道』のあとを辿ることと、各地の有力な俳諧の宗匠を訪ねて俳話を楽しむことにありました。
 子規は、そのために草鞋に脚絆、菅笠という格好をとらず、「おろし立てのジカばきの駒下駄に、裾を引きずった袴(河東碧梧桐著『子規を語る』)」で旅立ち、「紳士旅行」と称します。
 上野から汽車で宇都宮に着いた子規は、「かねて紹介状をもらっていた宇都宮の某宗匠を尋ねた。……人間味にも芸術味にも、何ら触れることのない、その癖座作進退に四角張った礼儀を守っていなければならない、空虚な対応は、子規の期待をうら切った(『子規を語る』)」のでした。
 20日は汽車で宇都宮を発ち、白河駅で降りると、天気は降ったり止んだりを繰り返しています。小峰城祉を訪れ、「感忠銘」の前で休憩し、白河に戻り、宗匠の中島某を訪ねます。『はてしらずの記』には「この人、風流にして、関の紅葉を取りて、扇などにすかしたり」とある。要するに格好ばかりの宗匠だということでした。
 21日は、天満宮に参拝してから白河を出て、須賀川に道山壮山という宗匠を訪ねました。「若輩に見えた子規は……(三森)幹雄門にでも入って、もっと勉強するといい(『子規を語る』)」とまでいわれています。子規はこのときの怒りを「頭から取りあわぬ様子も相見え申し候(7月21日碧梧桐宛書簡)」と、碧梧桐への手紙に書きつけました。
 22日は、郡山から北へ一里余にある浅香沼を訪ね、郡山から汽車で本宮に行きました。子規は、芭蕉の足跡を辿れば、必ず名所に出合うとの感想を持ちます。南杉田の遠藤菓翁との会話は意外にも楽しいものに終わり、菓翁宅に泊まらせてもらいました。
 これ以後、『はてしらずの記』から宗匠訪問の企画は姿を消してしまいます。「日本」新聞の「文学八つ当たり」に「近時の宗匠の無学無識無才無智卑近俗陋平平凡々なるや(明治26年4月1日)」と書いていることから、宗匠たちとの不愉快な出逢いによって、子規はますます俳句革新を進めなければならないと思ったのでした。
 
 
 松島の風、象潟の雨、いつしかとは思いながら、病める身の行脚道中覚束なく、うたた寐の夢はあらぬ山河の面影、うつつにのみ現われて、今日としも思い立つ日のなくて過ぎにしを、今年明治廿六年夏のはじめ、何の心にかありけん。
   松島の心に近き袷かな
 と自ら口ずさみたるこそ我ながらあやしゅうも思いしが、ついにこの遊歴とはなりけらし。先ず松島とは志しながら、行くては何処にか向わん。ままよ浮世のうき旅に、行く手の定まりたるもの幾人かある。山あれば足あり、金あれば車あり。脚力尽くる時、山更に好し。財布軽き時、かつて羽が生えて仙人になるまじきものにもあらず。自ら知らぬ行末を楽みに、はて知らずの日記をつくる気楽さを誰に語らんとつぶやけば、罔両傍に在りてうなづく。すなわち以て序となす。あなかしこ。
 三春病いに鎖して、筆硯ようようにうとみ勝なるに、六月のはじめつかたより、またわらはやみに罹りて、人情の冷熱、一生の盛衰は独り心に入みながら、時鳥の黒焼もその効あらず、野道の女郎花われ落ちにきと人に語ふ間も無く、木末の朽葉ふるいかへし、ふるい落して兎角する程に一月も過ぎぬ。ある日、鉄眼禅師のわが病休をおとずれて、今より北海行脚にと志すなりと語らるるに、羨ましさは限りなけれども、羽抜鳥の雲井を慕う心地して、
   涼しさやわれは禅師を夢に見ん
 と餞別の一句をまいらす。やがて病の大方におこたりしかば、枕上の蓑笠を睨みて空しく心を苦しめんよりは、奥山羽水を踏み越えて胸中の鬱気を散ぜんには如かじと、我も思い人も勧むるままに旅衣の破れをつくろい、蕉翁の奥の細道を写しなどあらましととのえて、今日やたたん、明日や行かんと思うものから、ゆくり無く医師にいさめられて、七月もはや十九日というにようよう東都の仮住居を立ち出でぬ。
 かねて旅立のよし知りたる誰彼より、よりよりに贈られたる餞別の句、
   松島の紙帳につるせ松の月  素香
 橘為仲とよ陸奥守にてくだりける白河の関を通るとて、狩衣指貫とり出て着しける事を思い出でて、
   白河の関で着かへよひとへ物  同
   松島へ昼寐しに行く行脚かな  孤松
   涼しさの君まつしまぞ目に見ゆる 鶯洲
 子規氏、松島行脚の首途に泥硯を贐して
   旅硯清水にぬらせ柳陰  江左
   松島で日本一の涼みせよ 飄亭〔はてしらずの記 明治26・7・23〕
 その外にも数え尽さず。
   松島の風に吹かれんひとへ物
 一句を留別として上野停車場に到る。折ふし来合せたる飄亭一人に送らる。我れ彼が送らんことを期せず、彼また我を送らんとて来りしにも非ざるべし。まことや鉄道の線は地皮を縫い、電信の網は空中に張るの今日、椎の葉草の枕は空しく旅路の枕詞に残りて、和歌の嘘とはなりけり。されば行く者悲まず、送る者歎かず。旅人は羨まれて留まる者は自ら恨む。奥羽北越の遠きは昔の書にいいふるして、今は近きたとえにや取らん。
   みちのくへ涼みに行くや下駄はいて
 など戯る。汽車根岸を過ぐれば左右の窓に見せたる平田渺々として、眼遥かに心行くさまなり。
   武蔵野や青田の風の八百里
   宙を踏む人や青田の水車
 宇都の宮の知る人がりおとずれて、一夜の宿を請う。驟雨瀧の如く灑ぎて、神鳴りおどろおどろしう、今にもこの家に落ちんかとばかり思われて、恐ろしさいわん方なし。
   夕立や殺生石のあたりより
 二十日汽車宇都宮を発す。即景、
   田から田へうれしさうなる水の音
 名に聞えし那須野を過ぐるに、見渡す限り夏草生い茂りて、たまたま木ありとも長三尺には足らざるべし。唯ところどころに菖蒲瞿麦のやさしゅう咲き出でたるは、何を力にかといと心もとなさに、
   下野のなすのゝ原の草むらにおぼつかなしや撫し子の花
   草しげみなすのゝ原の道たえてなでしこ咲けり人も通はず
 常陸の山脈東南より来り、岩代の峰勢西北に蟠る。那須野次第に狭うして両脈峰尾相接する処、これを白河の関とす。昔は一夫道に当りて万卒を防ぐ無上の要害、奥羽の咽喉なりしとかや。車勢やや緩く山を上るに、このあたりこそ白河の関なりけめと独り思うものから、山々の青葉風涼しくして更に紅葉すべきけしきにもあらず。能因はまだ窓の穴に首さし出す頃なるを、きのう都をたちて、きょうここを越ゆるも思えば、汽車は風流の罪人なり。
   汽車見る見る山をのぼるや青嵐
 白河駅に下る。忽ち雨、忽ち晴。半ば照り半ば雨る。定まらぬ天気は旅人をもてなすに似たり。〔はてしらずの記 明治26・7・27〕
 白河の東半里ばかりに結城氏の城祉ありと聞きて、畦道辿り行く。水車場をめぐりて山に上ること数十歩、高さ幾丈の巌石を巧みに鉛直にけずりて、その面に感忠銘と題せる文を刻せり。ここは結城氏の古城の搦目手にして、今まに搦目と称えたり。前に川を控え、後は山嶺相接せる険要にして、しかも風光に富めり。この城出来し後、白河二所の関は廃せられたりという(二所の関というは無類の要害なればとて、二重に関を構えたる故なり)。しばし碑前にやすらえば、涼気襟もとに滴るが如し。
   涼しさやむかしの人の汗のあと
 白河に帰り、中島某を訪う。この人風流にして、関の紅葉を取りて扇などにすかしたり。当駅は二千戸ばかりの都市にして、今は閭門寂寥行人征馬の往来も稀なるに、独り紅粧翠鬟を儲うるの楼閣巍々として、一廓を成すは昔の名残にやあらん。後庭筆を歌うの声だに多くは聞えず。
   夕顔に昔の小唄あはれなり
 二十一日朝町はずれをありく。森を見かけてのぼれば果して天満宮あり、境静かにして杉古りたり。
   夏木立宮ありさうなところかな
 白河を発す。途上口占、
   麦刈るや裸の上にこもひとつ主
   山里の桑に昼顔あはれなり
   やせ馬の尻ならべたるあつさかな
 須賀川に道山壮山氏を訪う。この地の名望家なり。須賀川は旧白河領にして、古来この地より出でたる俳人は、可伸等窮雨考たよめ等なり。郡山に宿る。旧天領にして二千余戸の村市なり。三四の露店氷を売れば、老幼男女更る更る来りて梭を織るが知し。〔はてしらずの記 明治26・7・28〕
 二十二日朝浅香沼見んとて出でたつ。安達太郎山高く聳えて、遥かに白雲の間に隠約たり。土俗これを呼んであだたらという。
    短夜の雲をさまらずあたゝらね
 郡山より北すること、一旦余福原という村はずれに長さ四五町幅二町もあるべき大池あり。これなん浅香沼とはいりつたえける。小舟二三隻遠近に散在し、漁翁篙を取て書画の間に往来するさま、幽趣筆に絶えたり。
 郡山より汽車にて本宮に赴く。本宮は数年前の洪水にて、いたく損害を蒙り、今になお昔の姿に回らずという。水の跡は門戸蔀などに残りて一間ばかりの上にあり。ここより徒歩にて田舎道辿り行けば、山に沿い、田に臨みて地閑静なり。
   水無月やこゝらあたりは鶯が
 とにかくに二百余年の昔、芭蕉翁のさまよいしあと慕び行けば、いずこか名所故跡ならざらん。その足はこの道を踏みけん、その目はこの景をもながめけんと思うさえ、ただその代のことのみ忍ばれて、俤は眼の前に彷彿たり。
   その人の足あとふめば風蕪る
 南杉田の遠藤菓翁氏をおとずれけるに、快く坐に延きて款待いと懇なり。氏は剛毅にして粗糲に失
せず、朴訥にして識見あり。我れ十室の邑にかの人を得たり。談ずること少時、驟雨沛然として至る。氏いう、僻境何のもてなしも無し。一椀の飯半椀の汁漸く飢をささうるに足るのみ。されども蝿蚤の間に一夜を明かし給うもまた一興ならんと。勤めらるるままに、終に一泊に決す。〔はてしらずの記 明治26・7・29〕





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020.01.05 11:15:53
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.