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カテゴリ:正岡子規
前回、人力車に乗っての外出を文章にして発表するのは、明治32年の秋からですと書きましたが、明治31年8月8日に「日本」に発表された「夕涼み」を忘れていました。出かけたのはこの年の7月23日のことでした。 子規は、人力車に乗って中村不折の新規を訪ねます。不折の新居は、子規庵の近くにあり、のぞいてみると不折は裸でうろうろしていました。この袋町の三島神社近くにあった床屋は「美術床屋」と呼ばれます。明治35年6月16日の『病牀六尺』には「根岸へ来ると三島前の美術床屋には剥製の白鷺が石膏の半身像とともに飾ってある」と美術床屋のショーウィンドウを説明しています。この床屋は、子規の行きつけでもありました。 寺田寅彦は、この根岸近辺の様子を『子規自筆の根岸地図』という文に仕上げています。かつて見た根岸の風景は、記憶がおぼろげなこともあり、再び訪れてみるとすっかり違っているように思います。 子規の自筆を二つ持っている。その一つは端書はがきで「今朝は失敬、今日午後四時頃夏目来訪只今(九時)帰申候。寓所は牛込矢来町三番地字中ノ丸丙六〇号」とある。片仮名は三字だけである。「四時頃」の三字はあとから行の右側へ書き入れになっている。表面には「駒込西片町十番地いノ十六 寺田寅彦殿 上根岸八十二 正岡常規」とあり、消印は「武蔵東京下谷 卅三年七月二十四日イ便」となっている。これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京したことをわざわざ知らしてくれたものと思われる。その頃自分は大学二年生であったが、その少し前に郷里から妻を呼びよせて西片町に家をもっていたのである。 「今日」とあるのは七月二十三日だろうと思われるのは消印が二十四日のイ便であるのに「只今(九時)帰申候」とあるからである。夏目先生が帰ってからすぐに筆をとってこの端書をかき、そうして、おそらくすぐに令妹律子さんに渡してポストに入れさせたのではないかとも想像される。それが最後の集便時刻を過ぎていたので、消印が翌日の日附になったものであろう。 それはとにかく「四時」「九時」と時刻を克明に書いている所に何となく自分の頭にある子規という人が出ているような気がする。そうかと思うと日附は書いてないのも何となく面白い。 配達局の消印も明瞭で駒込局のロ便になっている。一体にその頃の消印ははっきりしていたが、近頃のは捺し方がぞんざいで不明なのが多いような気がする。こんな些末なところにも現代の慌だしさが出ているかもしれないと思われる。 もう一つの子規自筆の記念品は、子規の家から中村不折の家に行く道筋を自分に教えるために描いてくれた地図である。子規常用の唐紙に朱罫を劃した二十四字十八行詰の原稿紙いっぱいにかいたものである。紙の左上から右辺の中ほどまで二条の並行曲線が引いてあるのが上野の麓を通る鉄道線路を示している。その線路の右端の下方、すなわち紙の右下隅に鶯横町の彎曲した道があって、その片側にいびつな長方形のかいてあるのがすなわち子規庵の所在を示すらしい。紙の右半はそれだけであとは空白であるが、左半の方にはややゴタゴタ入り組んだ街路がかいてある。不折の家は二つ並んだ袋町の一方のいちばん奥にあって「上根岸四十番不折」としてある。隣の袋町に○印をして「浅井」とあるのは浅井忠氏の家であろう。この袋町への入口の両脇に「ユヤ」「床屋」としてある。この界隈の右方に鳥居をかいて「三島神社」とある。それから下の方へ下がった道脇に「正門」とあるのはたぶん前田邸の正門の意味かと思われる。 もちろん仰向けに寝ていて描いたのだと思うがなかなか威勢のいい地図で、また頭のいい地図である。その頃はもう寝たきりで動けなくなっていた子規が頭の中で根岸の町を歩いて画いてくれた図だと思うと特別に面白いような気がする。 表装でもしておくといいと思いながらそのままに、色々な古手紙と一しょに突込んであったのを、近頃見せたい人があって捜し出して書斎の机の抽斗に入れてある。せめて状袋にでも入れて「正岡子規自筆根岸地図」とでも誌しるしておかないと自分が死んだあとでは、紙屑になってしまうだろうと思う。 こんな事を書いていたら、急に三十年来行ったことのない鶯横町へ行ってみたくなった。日曜の午後に谷中へ行ってみると寛永寺坂に地下鉄の停車場が出来たりしてだいぶ昔と様子がちがっている。昔の御院殿坂を捜して墓地の中を歩いているうちに鉄道線路へ出たがどもう見覚えがない。陸橋を渡るとそこらの家の表札は日暮里となっている。昨日の雨でぐじゃぐじゃになった新開街路を歩いているとラジオドラマの放送の声がついて来る。上根岸百何番とあるからこの辺かと思うが何一つ昔の見覚えのあるものはない。昔の根岸はもうとうに亡くなってしまっている。鶯横町も消えているのではないかという気がして心細くなって来た。とある横町を這入って行くと左側にシャボテンを売る店があった。もう少し行くと路地の角の塀に掛けた居住者姓名札の中に「寒川陽光」とあるのが突然眼についた。そのすぐ向う側に寒川氏の家があって、その隣が子規庵である。表札を見ると間違いはないのであるが、どういうものか三十年前の記憶とだいぶちがうような気がする。門も板塀も昔の方が今のより古くさびていたように思われ、それから門から玄関までの距離が昔はもっと遠かったような気がする。もちろん思い違いかもしれない。ただ向う側の割竹を並べた垣の上に鬱蒼と茂って路地の上に蔽いかぶさっている椎の木らしいものだけが昔のままのように見える。人間よりも家屋よりもこうした樹の方が年を取らぬものと思われる。とにかくこの樹の茂りを見てはじめて三十年前の鶯横町を取返したような気がした。 帰りにはやっぱり御院殿の坂が見付かった。どこか昔の姿が残っているが昔のこんもりした感じはもうない。 鶯横町の椎の茂りを見ただけで満足してそのまま帰って来てよかったような気がする。三十年前の錯覚だらけの記憶をそのまま大事にそっとしておくのも悪くはないと思うのである。 帰ってから現在の東京の地図を出して上根岸の部分を物色したが、図が不正確なせいか鶯横町も分らないし、子規自筆地図にある二つの袋町も見えない。ことによるとちょうどその辺を今電車が走っているのかもしれないのである。(寺田寅彦 子規自筆の根岸地図) それから子規は上野から広小路を経て連雀町を抜け、五百木氷帝の新居前を通り、両国から吾妻橋、向島を経て長命寺に行きます。ここでかつて過ごした昔を思い浮かべます。そして、寅彦と同じような感慨を抱くのでした。 蜩上野に啼きて入日谷中に傾くある夕暮の風にさそわれてかろうじて車に舁き載せられつ、三尺の庵を出づれば空は思いしよりも広くゆたけき様なり。 扇持たずもとより羽織などは着ず、鶯横町を出でて狸横町に入る。家奥まりて路暗く夏草垣より高く生い茂りて昼も人の通わざりしこの横町に、いつの間にか建ちけん新しき家檐を並べて昔の草むらのなごりもとどめず。 狸さへ蟇さへ住まずなりにけり 不折の新居の門口までおとずれて裸の主を驚かし 葉鶏頭の笛養ふや絵師が家 名高き床屋の前を過ぎつつ見ればあるじの自ら彫刻したりという肖像うつくしき椅子に並んで兜に栽えしという荵は見えざりき。 石像に蝿もとまらぬ鏡かな 新阪より上るにこのあたりの思いの外に暗く覚ゆるはかつて見し若木の校長くひろごり垂れしにやあらん。三年見ねば人さえ面変りするに況して 五年見ぬ山の茂りや両大師 上野の木の下闇を出ずれば広小路御成道の両側やや異なりし様を見つつ行くに 時計屋も夏桃店も挨かな 葉柳に挨をかぶる車上かな 連雀町に瓢亭新居の門前を過ぎ 町暑し蕎姿屋下宿屋君が家 両国を渡り川に沿いて吾妻橋に向う。上げ潮溢れんとしてタ風波だつ中を人のぬき手きって泳ぐを見るに、物おそろしき心地に先ず肝潰るるは我ながら気の衰えたるよ。 見る所二つ三つ 鷺の立つ中洲の草や川涼し 贅沢な人の涼みや柳橋 泳ぎ場に人の残りや夏の月 金持は涼しき家に住みにけり 夕涼み石炭くさき風が吹く ここ迄来て向島見ざらんはと勇を鼓してなおさかのぼる。ここの桜も皆昔見しよりはいたく繁れり。 葉桜に夜は茶屋無し隅田川 渡し場に灯をともしたる茂りかな 涼しさや川を隔つる灯は待乳 焼け跡の新築を見て長命寺の門前にもちい売るあるじの妻としばらく旧を話す。ここは十年前の假住居の処なればさすがに思い出づること多かり。 葉桜や昔の人と立咄 葉隠れに小さし夏の桜餅 茶を喫して別る、車をかえせば今戸のともし火近くつらなりて今しも入りなんとする三日月のいと大きなるが駒形堂に掛れる、靄は浅草を罩めて波の音かすかなり。嗚呼思いいだせばこの夕なり。ここに住みし昔、夏の長き日を小説にも読み飽き夕餉の後は蚊の声に追い出されてこの堤の上を且つ歩み且つ彳(たたず)みタ栄の富士蒼く見らるる頃より暮れ尽すまでの変化を見るは、一日のこよなき楽みなりき。ことに三日四日の月の頃は似るものなく、あわれ身に入みて滋じたりしは今に忘れで、おりおり思い出だすことさえあるを、たまたまに来て見ればあたかもこれ十年前の昔の夕ならんとは。いかでかは感ぜらん。何一つ変ることなきこのけしきにあわれ我も昔の人に立ち戻らねばやと思うもせん無かるべし。光陰は水声の中に尽き、人命は白頭をしも待たず。更に思う十年の後、このけしき、この夕、知らず月は如何なる人にか忍ばるべき。 吾妻橋を渡れば萬感子句悉く消えて浅草の観音は相変らずの繁昌なり。 入谷にそれて帰る。 暗き町やたまたま床屋氷店(夕涼み)
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最終更新日
2020.03.03 19:00:06
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