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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2020.07.11
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カテゴリ:正岡子規
   鶯のうたゝ眼白の眼を妬む(明治30)
   萩枯れて隣の菊を妬みけり(明治30)
   つれの者の松茸取りし妬み哉(明治30)
 
 明治33年6月25日、子規はパリの浅井忠に宛てて、長い手紙を送りました。1月16日に子規庵で、催された。会する者、陸羯南、中村不折、下村為山、内藤鳴雪、五百木瓢亭、坂本四方太、松瀬青々らが集まって、浅井忠の渡仏送別会が催されています。忠は、2月冬日に神戸を出発して4月17日にパリへ到着しています。その後、子規のもとへ5月20日に書かれた忠からの手紙が届き、急いで筆をとったと思われます。また、忠の手紙は、7月10日の「ホトトギス」に『巴里消息』として掲載されました。
 当時の不折は、明治32年に明治美術会展へ「淡煙」「黄葉村」を出品し、「黄葉村」はパリ万国博に出品という褒賞を受けています。また、挿画や装丁においても人気を呼んでいました。その理由は「画家は多くはその性疎懶にして人に頼まれたることも期日までに出来るは甚だ少きが常なり。しかるに不折君は人に頼まれたるほどのこと尽くこれに応ずるのみならず、その期日さえ誤ること少ければ、書肆などは甚だ君を重宝がり、またなきものに思いて教科書の挿画、その他書籍雑誌の挿画及び表紙を依頼する者絶えず。想い起す今より七、八年前、桂舟の画天下に行われ桂舟のほかに画家なしとまで思われたる頃なりき。博文館にても何かの挿画を桂舟に頼みしに期に及んで出来ず、館主自ら車を飛ばして桂舟を訪い、頭を下げ辞を卑うし再三繰返して懇々に頼みおりたることあり。それを思えば期日を延すべからざる雑誌などの挿画かきとして敏腕にしてかつ規則的なる不折君を得たる博文館の喜び察すべきなり。そのほか君の前に書画帖を置いて画を乞う者あれば君は直に筆を揮うて咄嗟画を成す」と、締め切りを守ることで出版社に重宝がられていると、明治34年6月28日の『墨汁一滴』に書いています。
 
 子規の手紙には、不折への不満の部分が記されています。当時、不折は元々あった収集癖が高じて、古画の掘出しに夢中になっていました。子規はそれに対し、「不折子は百花園の画を四十円に売って、それで買い候由、しかしそんなことでは足らざりしようでは、なお他よりうめ合せ致され候ことと存候。よその財政の報告などは無用ながら一寸気にかかるもの故申上候、呵々」と書き、不折の散財を嘆いています。
 また「不折子の弁解を聞くにつけても同子の全盛を嫉妬する者の多きこと推察致され候。何も不折子に大家ぶる様はなけれど、得意なときには得意な様現れ候によりて妬まれ候ことと存候。貧乏なときの得意は人の同情を引きやすけれど、やや全盛に向いて後の得意は直に嫉妬を召き候。小生など不折子の行為に最多く感ずるの一人なれど、さりながら近日の如く掘り出しに誇りおる様を見ては。やや片はら痛く存候。画は子の専門とするところなれば、その古画を買うて研究するはほむべきものになるべく、平生自身は粗衣粗食に安んじ一朝専門的研究のために百金を投じて惜混ざるは実に感歎に堪えざることに候。さる感歎的可賞的のことながら傍より見れば、やな感じにもなり候は、畢竟嫉妬というあさましき心の起りしなるべく小生自ら自分のあさましきに感じ候ととも、子別に自ら省ることも有之候。文学美術は由来末技として取扱我、また貧乏人のすることと思我来たり候故、今日に至りても世人一般は大概この感じを去らず、小生の如く身はその中にありて文学美術の価値を十分に知り抜きたる者にても、不折子の画が三百円に売れたと聴けば何だか高過ぎるような感じも致し候。小生にしてしかる上は一般の人は思いやられ申候」と、不折の画が人気になり、高値になってきたことも報告しています。
 
 そして子規は、不折と自分の生活を比較します。「小生なども一篇の文章を書いて何円取れたとか、俳句を抜いて何円貰歌とかいうこと他人より見れば高過ぎるように思うべく、もし他人に誹られぬようにするには、どこまでも清貧的にやらざるべからざることと存候。未来は知らず、今日にては『文士は貧乏ならざるべからず』と神様の掟に定めあることと被信候。『必要費だけなくては』とは一般の口癖にいう所ながら、必要費と贅沢費との区別は到底難出来候故、小生はそんな曖昧なことをいわず、必要費でも何でもなるべく少くして暮らすが文士の職分とこの頃始めて思い知り候。病気の上よりはなるべく贅沢を欲する小生が、この衝突したる意見を抱きて、さていずれの意見が勝を制するかと申候に、今日まで出来る範園内において為しつつある贅沢を減少するわけには参らず、さりとてこの上贅沢する程の金は出来申まじく、それこれするうちにこの世も終るべく、つまりこれらの消極的気焔も死にがけの駄賃と御笑い可被下候」と書き、贅沢がしたいと思っている自分の気持ちが解消されないことを嘆くのでした。
 しかし、やせ我慢の得意な子規は、そのことに「悟り」を開いたといいます。「小生元来金をほしとは存ぜず候えど、友逹が百円取っているに、自分は五十円しか取らぬ、あいつが五十円貰うに自分は廿五円しか貰わぬというようなことに心をなやましおり候処、文士の職分を心得て後、全くその煩悶なくなり申候。むしろ人が多く取っておるだけ自分が少く取っているだけ自分がえらいように存候。何故と申せば「文士は貧乏なれ」という神様の掟に自分が叶いおり候故に御座候。かく金の上に悟りを開いて後、小生は精神上一段の安慰を得申候。それ故この上いくら貧乏になっても天下太平に御坐候」と、自分の境遇を笑い飛ばすのでした。
 

 
 新嘉坡(シンガポール)よりの御端書及び仏国よりの御端書拝見。只今また五月廿日附の御手紙落手拝披致候。さて異郷の風土御さわりも無く御健全に御消光被成候由奉慶賀候。私も本年はさしたる大患にもならず暮しおり候間乍憚御安心被下度候。しかし格別の衰弱を自覚致候程故、再会の栄を得るや否やは疑問に屈しおり候。
 ホトトギス表紙下絵御恵送被下御厚惹感謝に堪えず候。高浜に見せ候わば意外の賜と喜び可申候。模様の具合もっとも面白く存候。 
 前日陸氏への御書面の趣、伝聞致侯とこの度委細御報被下候と両面の御観察併せ見て御地の有様美術界の様子も大概知れ申候。不折子などにも他へ可申候。大方その辺であろうと今までも推察致居候えども、素人の報告ばかり故、突飛的意外に感じ候ことも有之候いしが、やはり突飛的意外なことは無きように候。
 日本のことは新聞紙上にて御覧可被成、支那のさわぎなどはどこまで立ち至るものか今日にては少しも分り不申候。そんなことはどうでも善いとして仲間の変動報告可致候。しかし今春来半年も立たぬこと故、変動と申す程の二号活字的大事件は一つも無之候。
 根岸には変愛ったこともなく、根岸会は折々岡野に催さるる様子。元光院ノの碁会も不相愛変ながら、いつか程は盛に泣きかと余所目に察申候。時々豚博士の講釈などあり。金儲けでも豚とくると、何だか趣味あるように存候。
 御出立前御周旋にあずかりし金網籠は、その後不折子の周旋により、福原氏より借り来り庭前に据付申候。籠の中に李の生木一本を植え、鳥は
   鶸二羽 キンパラ二羽 キンカ鳥二羽 ジャガタラ雀一羽
 を入れ置き候。追々ふえ可申候。生木を植え候は、来春花咲かばの望に候えども、鳥は今の処尽く葉を喰い切り候を見るに、とても蕾が花になるまで無事にはそだち申まじく候。
 不折子は健在、不相変勉強被致候、先日青年同志の団結あり、今秋青年の展覧会を開くとの約束と承り侯。一人出品六枚宛、金は十円とか二十回とか醵金の由に候。このことは同子より委細申さるることと存候。
 不折子近来古画掘出しに肩を凝らし、掘出し物おびただしきことに候。あらましを申さば、仇英の山水、探幽の山水、文晁の写生牡丹、華山の漢高斬蛇図(これはつかまされ物のよし自白)、蕪村の小幅山水、及び狩野家(駿河台) 所蔵の粉本一荷、その外無数の蔵幅出来、あっぱれの蔵画家となられ申候。いずれ同子の眼光にて睨みたること故、平凡の画幅は無之、皆面白きものに御座候。乍併、古画に至っては真偽難判候。
 仇英の山水というは、不折子は色々にほめ候ことなれども、玉木氏などは見向きも致さざる由、イいずれが正しきか分り不申候。探幽の山水というは無落款にて、雅邦は探幽と申、環斎などは雪舟と申候由。蕪村の小幅は面白きものというにはあらねど、偽筆にはあるまじく、環斎もひどくほめ候由。狩野家の粉本というもの、たいしたものにて、探幽の真筆などはたくさん有之、ことに雪舟筆の六枚屏風一双は大争位になりおり候。不折子は真筆と称し、他の諸家は皆模模写と申居候。これにつき、雪舟筆鶴鹿屏風考證一冊(中村鈼太郎著) 出来るような次第に御座候。結構はもちろん、その筆勢も非常に強きものにて、不折子のいう所はあながち無理とは思われず候、真偽はもとより保証しがたけれど、模写としても尋常の模写には無之候。
 堀出しの価はいわずもかなれど、不折子は百花園の画を四十円に売って、それで買い候由、しかしそんなことでは足らざりしようでは、なお他よりうめ合せ致され候ことと存候。よその財政の報告などは無用ながら一寸気にかかるもの故申上候、呵々。
 不折子従来成章堂(日本新聞社の事業に属する凸版) と衝突致居(これには種々の原因御座候)、ために日本新聞の挿画を凸版にせんとの勧告(陸氏よりの) に断じて応ぜず、陸氏もやや腹立候様子にて、下村子に勧めて凸版をかかせたき由、小生まで申来候故、下村氏へ左様申やり候。後にて不折子に聞けば、この際社中に不折排斥熱高まりおり候由なれば、あるいは牛伴置換の議もありしかとも存候。しかし不折子が受けたる寃罪も解けて、今はもとの平和に復し候。
「僕が大家ぶるといって社の人は攻撃するそうだ。少しも大家ぶらぬけれど……」
 など、不折子の弁解を聞くにつけても同子の全盛を嫉妬する者の多きこと推察致され候。何も不折子に大家ぶる様はなけれど、得意なときには得意な様現れ候によりて妬まれ候ことと存候。貧乏なときの得意は人の同情を引きやすけれど、やや全盛に向いて後の得意は直に嫉妬を召き候。小生など不折子の行為に最多く感ずるの一人なれど、さりながら近日の如く掘り出しに誇りおる様を見ては。やや片はら痛く存候。画は子の専門とするところなれば、その古画を買うて研究するはほむべきものになるべく、平生自身は粗衣粗食に安んじ一朝専門的研究のために百金を投じて惜混ざるは実に感歎に堪えざることに候。さる感歎的可賞的のことながら傍より見れば、やな感じにもなり候は、畢竟嫉妬というあさましき心の起りしなるべく小生自ら自分のあさましきに感じ候ととも、子別に自ら省ることも有之候。文学美術は由来末技として取扱我、また貧乏人のすることと思我来たり候故、今日に至りても世人一般は大概この感じを去らず、小生の如く身はその中にありて文学美術の価値を十分に知り抜きたる者にても、不折子の画が三百円に売れたと聴けば何だか高過ぎるような感じも致し候。小生にしてしかる上は一般の人は思いやられ申候。
 それらより考え候に、小生なども一篇の文章を書いて何円取れたとか、俳句を抜いて何円貰歌とかいうこと他人より見れば高過ぎるように思うべく、もし他人に誹られぬようにするには、どこまでも清貧的にやらざるべからざることと存候。未来は知らず、今日にては「文士は貧乏ならざるべからず」と神様の掟に定めあることと被信候。「必要費だけなくては」とは一般の口癖にいう所ながら、必要費と贅沢費との区別は到底難出来候故、小生はそんな曖昧なことをいわず、必要費でも何でもなるべく少くして暮らすが文士の職分とこの頃始めて思い知り候。病気の上よりはなるべく贅沢を欲する小生が、この衝突したる意見を抱きて、さていずれの意見が勝を制するかと申候に、今日まで出来る範園内において為しつつある贅沢を減少するわけには参らず、さりとてこの上贅沢する程の金は出来申まじく、それこれするうちにこの世も終るべく、つまりこれらの消極的気焔も死にがけの駄賃と御笑い可被下候。
 小生元来金をほしとは存ぜず候えど、友逹が百円取っているに、自分は五十円しか取らぬ、あいつが五十円貰うに自分は廿五円しか貰わぬというようなことに心をなやましおり候処、文士の職分を心得て後、全くその煩悶なくなり申候。むしろ人が多く取っておるだけ自分が少く取っているだけ自分がえらいように存候。何故と申せば「文士は貧乏なれ」という神様の掟に自分が叶いおり候故に御座候。かく金の上に悟りを開いて後、小生は精神上一段の安慰を得申候。それ故この上いくら貧乏になっても天下太平に御坐候。
 小生生来旅行好にて何という目的はなけれど、ぜひ世界一周致したしと存候いしに、日本の十分の一も踏むか踏マヌに、腰抜けと相成残念に存候。しかし熟々思えば、もし巴理の繁華贅沢などを見て帰り候わば、到底「文士貧乏なれ」の掟を守り難かるべく、それを思打て神様は小生の腰を抜き、ぜひとも貧乏ならしむるように強制致され候ことと存候。ハハハハ。
 難有迷惑のことに存候。
 日本にありては服部中佐討死位より外に世界的気焔を吐く余地もなく候えば、根岸的気焔を吐き散らし申候。
 巴理のガス燈の下にて、根岸の五分心のラムプの陰にて聞くようなまよい言を御聞きなさるもかえって御一興なるべくと、わざとまよい言如斯候。謹言。
   明治卅三年六月廿五日御手紙拝見後直に筆を把りて病床に書いしたため申候。
   日本東京上根岸八十二番  正岡常規
 
仏国巴理
  浅井忠 様
  なお時々御報道をたまわらば難有存候。
   クレ竹ノ根岸ノ豚ハウマカラズパリス思ヘバ涎シ流ル
  小生近来は何も書かずに、くうてばかりおり候。(明治33年6月25日 浅井忠宛書簡)





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最終更新日  2020.07.11 19:00:06
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