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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2020.07.13
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カテゴリ:正岡子規
   画き習ふ秋海棠の繪具哉(明治32)
   紙ににじむ秋海棠の繪の具哉(明治32)
   病牀に秋海棠を描きけり(明治32)
 
 子規は不折から絵の具をもらいました。それは明治32年の夏のことでした。
 明治33年3月10日発行の『ホトトギス』に掲載された『画』に「この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにいったら、不折君が早速絵具を持って来てくれたのは去年の夏であったろう。けれどもそれも棚にあげたままで忘れていた。秋になって病気もやや薄らぐ、今日は心持が善いという日、ふと机の上に活けてある秋海棠を見ていると、何となく絵心が浮んで来たので、急に絵の具を出させて判紙展べて、いきなり秋海棠を写生した。葉の色などには最も窮したが、始めて絵の具を使ったのが嬉しいので、その絵を黙語先生や不折君に見せると非常にほめられた。この大きな葉の色が面白い、なんていうので、窮した処までほめられるような訳で僕は嬉しくてたまらん。そこでつくづくと考えて見るに、僕のような全く画を知らん者が始めて秋海棠を画いてそれが秋海棠と見えるは写生のお蔭である。虎を画いて成らず狗に類すなどというのは写生をしないからである」とあり、明治35年に書かれた『病牀苦語』にも「○二、三年前に不折が使い古しの絵具を貰って、寝ておりながら枕元にある活花盆栽などの写生ということを始めてから、この写生が面白くて堪らないようになった。もちろん寝て居ての仕事であるから一寸以上の線を思うように引くことさえ出来ぬので、その拙なさ加減は言うまでもないが、ただ絵具をなすりつけていろいろな色を出して見ることが非常に愉快なので、何か枕元に置けるような、小さな色の美しい材料があればよいがと思うて、そればかり探しておった」と書いています。
 
 不折も「病床につくようになってから、画がかいて見たいが、かけるか知らん、というので、写生すりゃかける、といって、絵の具だの筆だのをいろいろ持って行った。寝ていて画くのだから、草花なんぞがいいだろう、といったのでよく草花を写生した。例の葉鶏頭なども、幾通りも写生したことがある。その代り、己は君の弟子になって画を習うから、君も己の弟子になって発句をやりたまえ、といって否応なしに発句を習わせられた。しかし僕には元来文学的素質が無いのと、専門の方が忙しいのとで、発句は遂にものにならなかった。正岡君の画については、そういう交渉があったが、先生が文学上に唱えた写生の議論は、必ずしも僕らの絵画における議論が影響したものとは思われない。その点はむしろ御互に共嗚したと見るべきであろう」と『追憶断片』に当時を思い出しています。
 

 
 では、子規が初めて描いた秋海棠の絵はどんなものかというと、上の絵です。カラーでお見せできないのが残念ですが、絵の右に「これは生れて始めて絵の具を使いし画にて候」と書かれ、三つの句が添えられています。ぼんやりとした様子の秋海棠が大胆に描かれていて、確かに初めて絵の具を使った絵にしては、上出来の部類です。
 子規が草花の絵を描く様子が描かれている『病牀苦語』をお読みください。
 
二、三年前に不折が使い古しの絵具を貰って、寝ておりながら枕元にある活花盆栽などの写生ということを始めてから、この写生が面白くて堪らないようになった。もちろん寝ていての仕事であるから一寸以上の線を思うように引くことさえ出来ぬので、その拙なさ加減は言うまでもないが、ただ絵具をなすりつけていろいろな色を出して見ることが非常に愉快なので、何か枕元に置けるような、小さな色の美しい材料があればよいがと思うて、そればかり探しておった。ところが去年以来は苦痛が劇しくその上に身体が自由に動かんのでほとんど絵をかくことも出来ずよき材料があった時などは非常に不愉快を感じていた。近頃になっては身体の動きのとれないことは段々甚しくなるが、やや局部の疼痛を感ずることが少くなったので、また例の写生をして見ようかと思いついてふとそこにあった蔓草の花(この花の本名は知らぬが予の郷里では子供などがタテタテコンポと呼ぶ花である)を書いて見た。それは例の如く板の上に紙を張りつけて置いてモデルの花はその板とともに手に持っているので、その苦しいことはいうまでもないが、痲痺剤を飲んで痛みが減じている時にほとんど仰向になってかろうじて書いて見たのである。二、三年前でさえ線がゆがんだり形が曲ったりとても自由には書けなかったものが、今となっては一層甚しいので、絵具を十分に調和するひまさえなく、少しの間に息せき息せき書いてしもうたのであるから、その拙ないことはいうまでもない。けれども出来上って見ると巧拙にかかわらず何だか嬉しいので、翌日もまた痲痺剤の力をかりてそれに二、三輪の山吹と二輪の椿とをならべて書き添え、一枚の紙をとうとう書き塞げてしもうた。そうして
   赤椿黄色山吹紫ニムレテ咲ケルハタテタテノ花
 という一首の歌を書きその横に年月を書き、それで出来上った。このタテタテの花というのは紫色の小さな袋のような花で、その中にある蕊(しべ)を取ってそれを掌の上に並べ置き、手の脈所のところをトントンと叩くとその小さな蕊が縦に立って掌にひっついているのが面白いので、子供の中にこの花を見つけるといつでもこういう遊びをして居いたのである。その聯想があるので、この花は昔床しい感じがして予を喜ばしめた。その後碧梧桐が郊外から背の低い菜種の花を引き抜いて来て、その外にいろいろの花なども摘みそえて来たことがあった。それでその菜の花を鉢植にして、下草にげんげんを植えて、それも写生して見たが、今度は一層骨折ってこまかく書いて見たので、かえって俗になってしもうた。それから後にまたある夜非常に煩悶してしかたのなかった時にふと思いついて枕元にあったオダマキの花の一枝が一輪ざしに挿さしてあったのを、今度は墨で輪廓を取って見た。それも苦しいのでその夜はそれをなげうってしもうたが、翌日になって見ると一枝の花を裏と表と両面から書いてあったのがちょっと面白かったので、それに改めてゾンザイな彩色を加えまた別にげんげんの花を二輪と、チンノレイヤという花とを書き添えた。このチンノレイヤという花は紫のようで少し赤みがあって、光沢があって、どうしてもその色をまねることが出来なかった。この一枚もかくの如くしてまた書き塞げてしもうたので、例の通り賛を加えた。その歌は、おだまきの花には
   桐ノ舎ガ妻ヲ迎ヘシ三年前カキテ贈リシヲダマキノ花
 という歌、これは一昨年の春東宮の御慶事があった時に予が鉢植のおだまきを写生して碧梧桐に送り、そのまさに妻を迎えんとするを賀したことがあるのを思い出したのである。別にこの花に意味はなかったのであるが、おだまきという名は何とやら恋にちなみのあるような心持がする。それからげんげんの賛は
   上ツフサ睦岡村ニ生レタル「ワラビ」ガ知ラヌゲンゲンノ花
 という歌、これは蕨真がげんげんの花を知らなかったので先日来た時に説明してやったことがあるのである。もっとも十年ほど前に予が房総を旅行した時に見分した所でも上総をあるく間は少しもげんげんを見たことがなかったので、この辺には全くないのかと思うたら、房州にはいってからげんげんを見たことを記憶しておる。上総にもげんげんはないではないが、余り多くないという話である。次にチンノレイヤの賛は
   珍ラシキ草花モガト茶博士ノ左千夫ガクレシチンノレヤノ花
 という歌、四、五年前にある爺が売りに来て小桜草という花とこの花と二種の鉢植を買って、その時
   春の日や草花売の脊戸に来る
 という句を作ったので今に覚えとるが、綺麗方のこの花はその年きりで枯れてしもうて、ただ小桜草という花ばかりは雪霜にもめげず年々花が咲いて今にその株が残っている。しかるに思いがけもなく抹茶趣味の左千夫からこの舶来の花を貰うて、再び昔のように小桜草とならべて置かれてあるのが満足であった。(病牀苦語)





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最終更新日  2020.07.13 19:00:06
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