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土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ)

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2020.08.24
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カテゴリ:夏目漱石
一月二十三日水 昨夜六時半女皇死去す。at Osborne. Flags are hoisted at half-mast. All the town is in mourning.
I, a foreign subject, also wear a black-necktie to show my respectful sympathy. "The new century has opened rather inauspiciously,” said the shopman of whom I bought a pair of black gloves this morning.
一月二十六日土 女皇の遺骸市内を通過す。(漱石日記)
 
 漱石は、ロンドンの中心部にあるハイド・パークに度々出かけていますが、ヴィクトリア女王の葬儀にブレッド家の主人に肩車されてこの大喪を見守ったことはよく知られています。これは前にも紹介していますので、今回はハイド・パークそのものについてご紹介します。こちらは、長谷川如是閑の『倫敦! 倫敦?』、大谷繞石の『案山子日記』からの引用です。 
※ヴィクトリア女王の葬儀は​こちら
 

 
 ピカディリーの通りを真直に行くとちょっとした広場に出る、ここがハイド・パーク・コーナーで、その一隅に屋根を吹き飛ばされて棟と柱ばかり残ったような門がある。それがハイド・パークの南側の重な入口だ。今一つこのピカディリーと並行しているオックスフォード・街のはずれに、マーブル・アーチというのがある。これは門には相違ないが、入口でも出口でもない門で、芝居の格子戸のように手持不沙汰に往来端に立っているのだが、その後といえば後、前といえば前にチャムバーランド門という鉄格子の洒落れた門がある。これがハイド・パークの北側の重な入口で、前の屋根なし門とこの門との間の距離は約一哩ある。これを横幅にして、ズット西に延びて、この公園と一心同体の隣のケンシントン・ガーデンスを合せると二哩ほどの長さがある。がハイド・パークの特徴はこの二つの門の間に著るしく現れているのである。
 どちらから入ってもよいが、時候の暖かい頃の天気の好い朝だったら、北側のチャムバーランド門を入って見るがよい。広々とした青草の原に算を乱してー、人間の死骸が転っているのに驚かされるだろう。それが低い鉄柵に沿うて散兵線の全員がヤラレてしまったように倒れている。前夜この公園に激戦があって、この土方のような兵隊が、鉄柵を楯に防禦線を張って、苦戦悪闘したという状態である。
 ちょうど千八百六十六年の改革一揆がここで警官を相手に一大戦闘を開いたことがあった。丁度、日比谷事件の際と同じで、平民らがこの公園で示威運動をやるというので、政府は公園の門を閉じてしまった。平民は憤激して、門を打ち壊わす、倫敦の河野広中君が群衆に向って「諸君、内政は弥縫をこととし」とか何んとか演説をする、ヤッつけろというので、群衆は公園内に突進して、二百余名の警官を屠り、江戸ッ児はだしの大活劇を演じた。公園の門を閉めた祟りは、かくの如く顕著であるのに、四十年後に日本の警察官が同じく公園の門を閉めて、東京に戒厳令を布くほどの騒動を起させたのは識者の晒(わらい)を脱れない。それ以来この公園の門は夜半の十二時過ぎにならなければ決して閉めない。閉めた後でも門番に銅貨の一つも掴ませれば開閉自在である。(長谷川如是閑 倫敦! 倫敦? ハイドパーク)
 
 ハイド、パアク、コオナアという東南隅の入口から公園へ入る。
 エリントン侯並びに戦死軍人のため、西班牙(スペイン)やヲォタルウ(=ウォータールー)で占獲した仏軍の大砲十二門を鋳潰して千八百二十二年に建造したというアキレスの大銅像を右に見てロットン、ロオに沿うた歩道を西に向って進む。
 ロットン、ロオとは特に騎馬のために設けてある大道で、幅二十間はあろう、長さは二十余りケンシングトン、ゲエトという門まで一直線だ。敷きならした細砂は馬蹄を没するばかりに深い。
 この乗馬道の北側は中央一直線に樫の大樹の植った四間幅の歩道だ。樹下には背中合に、馬道と平行に幾百千の共同椅子が、行儀よく並んでいる。
 この乗馬道の北側は低い鉄柵に限られてて、鉄柵内は冬も緑の色変らぬ一面の芝生だ。ところとどころ芝生を刈り取って花床がしつらえてある。桜草(メリムロオズ)をぎっしり植込んであるのもある。風信子(ハイアシンス)を程能く植込んであるのもある。
 馬車の南側にはまた一條の歩道があって、その南側には喬木の林をなした帯のごとき細長い地面を隔ててさらに歩道があり.その歩道の南側に十間幅位の車道がある。馬車でドライヴを試むる人たちのために設けたものだ。ここの道はまた踏めば戞として声ある程に、轍の跡を印せぬ堅い道だ。坦砥の如くである。そしてこの小道の南に更にまた歩道があるのである。
 僕は今この七つ並んだ道の一番北側の歩道を西に向って歩いているのである。少し寒いからか、人通は平素程に多くは無い。それでも乳母車に人形のような色の白い可愛いい子供を載せて散歩している保媢たちはなかなか多い。日傘ほどもある流行の帽子を冠った細君の腕を恭しくとって悠々緩々と歩いているシルクハット、モオニングの紳士にも偶々遭う。
 西の方遠くからロットン、ロオを一人の騎馬人がやって来るのが見える。姿はよくみえているけれども近づくのに余程手間取れる。馬をゆるくったりしているのである。
 近づいたのを見ると、一人は十一二の少女である。乳色を符びた薄紫のフロックを着て縁の広い山高帽を戴いている。そして鞍まで届く金髪を後へ垂れている。馬は栗毛の小馬だ。
 今一人は少女の馬術の教師であろう。シルクハット、金釦のフロックコオト、白の乗馬ズボンという扮装。連続葦毛の逞しいのにまたがってね少女を見下ろし気味に、轡を並べて打語りながら行く。
 僕は立止って二人の姿を暫く眺めた。
 ロットン、ロオと余り遠からぬ処に、それと殆んど平行に.サアぺンタインという胡瓜形の大池がある。幅は広い処は三丁はある。長さ十一二町はある。小島が片隅にある。
 僕はこの池の西北の隅近く架っている石橋の上に佇んで左右の光景を眺めている。
 千八百十六年詩人シエレエの最初の細君ハリエト、エストブルクがこの池へ入水したと聞いているが、その頃はこの辺はもつっと野山じみた、もっと淋しい処であったろう。今は雑木雑草は一つも見当たらぬ。
そして何時も人影の絶えぬ処になっている。
 池の周囲に、汀に沿うて、あるいは汀を少し離れて歩道がある。共同椅子もちらほら路傍に見える。道で無い処は例の芝生だ。芝生には処々樹木が立っている。葉の色鮮やかな樫大樹が多い。
石南もある。遠目にはそれと紛らわしいイングリシュ、ロオレルもある。連翹らしいものも見える。芝生には、二た月ばかり前には雪の花(スノードロップ)や蕃紅花(クロカス)やナアシッサス(水仙に似た)が程よく植付けてあったが、今はその代りに主として桜草と風信子が植え付けてある。綺麗だ。
 橋の中央の車道をひっきりなしに自動車馬車が走る。よく衝突せぬことだと思う程だ。左右の人道も織るような人通だ。
 池には鵜鳥白鳥が三々五々游泳している。ボオトも浮かんでいる。午後二時頃の日を受けて池の漣はきらきら光っている。玩具程の日傘をかざしたレディに舵をとらして両手で漕いでる若紳士の乗った極めて小さなボオトも見える。イィトン服の甲斐がいしい中学生らしいのが四人で漕いでる大きなボオトも見える。
 僕はこの池を眺めて何だか物足らぬ物があるような気がした。ふと気が付いた。柳だ。この池の汀に垂れ柳の大樹が五六本植っていたらばと思った。(大谷 案山子日記 ハイド、パアク)





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最終更新日  2020.08.24 19:00:04
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