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カテゴリ:夏目漱石
細き手の卯の花ごしや豆腐売 漱石(明治28) 寄りくるや豆腐の糟に奈良の鹿 漱石(明治40) 豆腐のような淡白なものを嫌っていた漱石ですが、豆腐にまつわる文章や小説はたくさんあります。 そもそも子供時代の思い出に、豆腐屋が深く刻まれています。 私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。……どんな田舎へ行ってもありがちな豆腐屋は無論あった。その豆腐屋には油の臭の染み込んだ縄暖簾がかかっていて門口(かどぐち)を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺(せいかんじ)という寺の門が小高く見えた。(硝子戸の中 19) 豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心の機(はずまな)いときはけっして豆を挽かなかったなら商買にはならない。さらに進んで、己の好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおのこと商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯しを点なければならない。公平という美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。一分の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分とか六分四分とかに交ぜ合して自己に便宜なようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天から余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに汚されてしまうのは当然である。芸術家としての彼は己に篤き作品を自然の気乗りでつくり上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売高の多いものを公にしなくてはならぬからである。(思い出す事など 27) 『二百十日』では、日常に埋没しなければならない豆腐屋の息子・圭さんが主人公となり、阿蘇山に登ろうとするが二百十日に出くわし、いつか華族や金持ちを打ち倒すという革命への標榜と、阿蘇山への再挑戦を誓います。 「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼で挽く音がする。ざあざあと豆腐の水を易える音がする」 「君の家は全体どこにある訳だね」 「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」 「だから、どこにある訳だね」 「すぐ傍さ」 「豆腐屋の向うか、隣りかい」 「なに二階さ」 「どこの」 「豆腐屋の二階さ」 「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。 「僕は豆腐屋の子だよ」 「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。 「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い靄が一面に降りて、町の外の瓦斯灯に灯ひがちらちらすると思うとまた鉦が鳴る。かんかん竹の奥で冴えて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子をはめる」 「門前の豆腐屋というが、それが君のうちじゃないか」 「だから君は豆腐屋らしくないというのだよ」 「これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。厄介だな。ハハハハ」 「なったら、どうするつもりだい」 「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうというのに、世の中がいう事をきかなければ、向うの方が悪いのだろう」 「しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」 「えらい者た、どんな者だい」 「えらい者って云うのは、何さ。例たとえば華族とか金持とかいうものさ」と碌さんはすぐ様えらい者を説明してしまう。 「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」 「その豆腐屋連が馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ」 「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ」 「こっちがする気でも向がならないやね」 「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」 「公平に出来れば結構だ。大いにやりたまえ」 「やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。――ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を圧逼するぜ、ああいう豆腐屋は。自分が豆腐屋の癖に」と圭さんはそろそろ慷慨し始める。 …… 「突然、人の頭を張りつけたら?」 「そりゃ気違いだろう」 「気狂いなら謝まらないでもいいものかな」 「そうさな。謝まらさすことができれば、謝まらさす方がいいだろう」 「それを気違の方で謝まれっていうのは驚くじゃないか」 「そんな気違があるのかい」 「今の豆腐屋連はみんな、そういう気違ばかりだよ。人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来なら向うが恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」 「無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」 圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、 「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と独り言のようにつけた。 村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の端から端までかあんかあんと響く。 「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺の鉦に似ている」 「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋の伜から、今日までに変化した因縁はどういう筋道なんだい。少し話して聞かせないか」(二百十日 1) 処女作『吾輩は猫である』に登場する豆腐は、漱石の好みが現れています。 「頭はよかったが、飯を焚くことは一番下手だったぜ。曾呂崎の当番の時には、僕ぁいつでも外出をして蕎麦でしのいでいた」 「ほんとに曾呂崎の焚いた飯は焦げくさくって芯があって僕も弱った。おまけにおかずに必ず豆腐を生で食わせるんだから、冷たくて食われやせん」と鈴木君も十年前の不平を記憶の底からよび起こす。(吾輩は猫である 4) しかし、この頃、森田草平に宛てた手紙には、自らを「猫党にして滑稽的+豆腐屋主義」と位置づけています。豆腐屋主義とは質実剛健なことをいい、自らの道を探そうとしている漱石のこころが伺えます。 ここにおいて僕はサボテン党でも露西亜党でもない。猫党にして滑稽的+豆腐屋主義と相成る。サボテンからは芸術的でないといわれ、露西亜党からは深刻でないといわれて、小便壺のなかでアプアプしている。これからさき何になるか、本人にも判然しない。要するに、周囲の状況で色々になるのが自然だろう。西洋人の名前などを担いでこの人の様なものをかこうなどというのは、抑も不自然の甚しきものである。君、オイランの写真を見て、アタイもこんな顔になろうたってなれやしないじゃないか。今の文学者は皆このアタイ連である。(森田草平宛書簡 明治39年10月21日) 豆腐は、漱石最後の小説『明暗』にも登場します。ここでは、豆腐は糖尿病治療のために食べなければならないものとして登場していますが、「豆腐屋主義」はどこかに消えて、自分に当たった罰のような存在と化しています。 「お延、叔父さんは情けないことになっちまったよ。日本に生まれて米の飯が食えないんだから可哀想だろう」 糖尿病の叔父は規定の分量以外にでんぷん質を摂取することを主治医から厳禁されてしまったのである。 「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」 叔父の膳には、とても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生のままで供えられた。(明暗 60)
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最終更新日
2021.03.03 19:00:06
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